「至らなさの全て」を抱きしめてこそ、僕は「この1年を精一杯生きた」と、意宣り上げる。

2020年も、そろそろ終わり。
 
僕にとってこの1年は、まるでジェットコースターのように駆け抜けた1年でした。
この1年に名前をつけるなら、「怒涛」かな、と思います。
ちなみにこの「怒涛」には、コロナ禍はほとんど関係のないものでした。
新たな挑戦や変化への選択が矢継ぎ早に訪れ続け、それに対応し続けた1年でした。
 
精一杯を超えた「イッパイイッパイ」のときもありながら、やっぱり精一杯生きた1年でした。
 
こんなにも「精一杯生きた」と言える1年は、初めてかもしれません。
でも、それと同時に、こんなにも「至らなさ」を感じた1年も、初めてかもしれません。
 
でも、そんな1年を過ごしたからこそ、わかるのです。
「精一杯生きること」と「至らなさを感じること」は、不可分な「セット」であるのだ、と。
 
人はおそらく「精一杯生きる」ように過ごすことで、これまで既に”至っていた”領域の少し外側に、足を踏み入れるのです。
そこはまさに、「今まで至ったことのない領域=その至らなさ」に初めて至った、ということなのです。
 
しかしながら、その「これまで既に至っていた領域」と「初めて到達した”至らなさ”の領域」は地続きで、しかもその境目は明瞭さのないグラデーションのようになっているせいで
人の意識はまるで「変化成長のない今までの自分から、その”至らなさ”が噴出しただけ」のように、感じてしまうのです。
 
これまでの自分から”至らなさ”が噴出した、のではないのです。
初めてその「今まで至っていなかった領域」に、足を踏み入れたのです。
 
それは、素直に「成長」と呼ぶべきものではないか、と思います。
そこに対して、なにか歪んだ謙遜めいた態度は、要らないのだと思います。
 
だから、僕は。
この「至らなさの全て」を抱きしめてこそ、僕は「この1年を精一杯生きた」と、意宣り上げます。
 
その両方は、どちらか一方というわけにいかない、不可分なものだから。
 
・・・そしてこの感覚は、僕の身体が僕の意識へと、非言語な感覚をもって語ってくれたものです。
だから、多分これは間違いではなく、合っていると思います。
 
「この至らなさの全てを抱きしめてこそ、僕は、この1年を精一杯生きた。」
・・・それでいいのだと、思います。
 

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