
2020年。
それは僕にとって、一言で表すならば
ようやくにして 「”僕” を始めた」1年
だった、と言える年でした。
”僕の意識” を、始めた
これまでの僕の人生を支え続けた一方、僕の心身に負荷をかけ続けたペルソナを破壊し、
その内奥にあった”僕の意識”に戻りました。
そこからもう一度、始めました。
”僕の身体” を、始めた
これまでの自己探求の果てに上記のペルソナ破壊が訪れると共に、身体レベル・非言語レベルでの生き辛さの根源=「自分が生きていること、そのものに対する”大丈夫感の無さ”」という「体の感覚そのもの」という存在を、 ”僕の意識” に対して、露わにしました。
そして、この ”凍り付き” とも言える体感覚と、何度も何度も対峙しました。
1冊の本との、出会い
そんな折、1冊の本との出会いが、ありました。
その出会いはまるで、神の計らいの如く最適なタイミングであるかのようでした。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法(Amazon)
医学的な臨床や(共同)研究に基づく知見が凝縮されたこの1冊は、まるで「これまでの僕に起き続けていたこと」と「これからの僕に必要なこと」をつなぐミッシングリンクの如く、僕の知りたかった謎を解き、言語化している本です。
心理的ストレスの学びを一旦降り、まず順番として「”身”理的」な「トラウマ」の学びに取り組む必要があるなか、この本は最適なものだと思います。
とても重厚な内容の本なので まだ3分の1ほどしか読めていないけど、これからもゆっくりじっくり読み進めます。
そしてこの本による学びはやがて「ポリヴェーガル理論」の学びの入り口へと、僕を導くのでしょうか。
・・・どうなるかは、これから”起きていくこと”に、任せようと思います。
”身”理エネルギーのバウンダリ、という課題
ようやく ”僕” を生き始めた自分にとって、特にその身体感覚は、まだまだ自他の境界=バウンダリがあいまいなのだと感じます。
そのためか、僕の生き辛さの根っこにある”身”理トラウマと、その表出である ”凍り付き” とも言える体感覚・体反応は、どうやら 他者の放つ何らかの不健全な身体エネルギーに巻き込まれることがトリガーとなりやすいことを、一つの課題として感じています。
これは決してスピリチュアルな話などではなく、とても単純で素朴な”身体の話”です。
僕の言葉は、より”透明になった”と思う
以前の僕の言葉は、どこまでも深く描写するような迫力めいたものがあったけれど、同時にどこか常に”力み”のあるものでした。
自分で言うのもなんですが、今の僕の言葉はその深み自体を描写する力を失ったけれど、そのかわり以前と比べて、より澄んだ、透明なものになったと感じています。
それでよいのだ、と思います。
水の深さを知りたいのなら、その深さそのものを描写できずとも その水自体が澄んでいればよいことです。
最後に
ようやくにして 「”僕” を始めた」1年が、終わろうとしています。
それゆえにまだヨチヨチ歩き、たどたどしくもあります。
ポジティヴであることも、ネガティヴであることもなく、前を向いていきます。
僕の意識に潜む生き辛さよ、どうか僕に
その偽ることなく その起きるままに起きて下さい
僕は、抗うことも 逃げることもできぬまま
そして抗うことも 逃げることもなく
ただ共にいます
僕の身体に巣食う生き辛さよ、どうか僕に
その偽ることなく その起きるままに起きて下さい
僕は、抗うことも 逃げることもできぬまま
そして抗うことも 逃げることもなく
ただ共にいます
ようやくにして僕を ”生き始めた” 1年が、終わろうとしています。