
受容こそ、積極策。
現在受講しているびBRC(ビリーフリセット・カウンセリング)講座。
そのカウンセリングスキルの根幹をなすのが・・・「傾聴」と呼ばれる、”人の話を聴く” 技術。
今回、その「傾聴」にフォーカスした 1day講座 が誕生。
カウンセラーなどの対人支援者向け、というよりは、「聴く」を通して人生の様々な人間関係を豊かにするための講座として
広い裾野へ開かれたものになっている。
そんな講座に今回、BRC講座の受講生としてスタッフ参加した。
そして、この講座。
BRC講座のスピンオフ、などと称するには余りにもパワフルで、深く豊かな学びとなった。
自分もスタッフとして参加しつつ、かつてBRCで学んだことを総復習できるような実り多き時間となった。
傾聴のプロセスは「話し手のためのもの」
”カウンセリングの父”とも呼ばれる、カール・ロジャーズ。
「来談者中心療法」の提唱者で、その”在り方” は現在のカウンセリングではもはや”当たり前”のものとなっている。
「来談者中心」とは、特に傾聴に関していえば・・・
「その傾聴プロセスの主役は”話し手=クライアント”であり、そのプロセスは話し手のモノである」ということだ。
しかし、いわゆる”日常会話”などにおける”聴き方”って、いったいどうなっていることが多いだろうか。
聴くための「ノンバイオレンス」な ”在り方”
相手の話を聴く時・・・ついつい、やってしまわないだろうか。
・・・「指示・忠告・解決」などによって「答えを出してあげよう」ということを。
「クライアント中心」としての「聴き方」というのは
「そのプロセスによる”答え”は、話し手が持っている」という”在り方”に根ざす。
そのため、聴き手というのは
「指示・忠告・解決など」をしないのが大原則。
それらはすべて、傾聴プロセスの上での「バイオレンスとなる」、と考えるのだ。
あらゆる誘導、クライアントのコントロールとなりうるものを”手放す”ようにする。
それが、話し手が安心して自分の事を話せるための「ノンバイオレンス」な ”在り方” を構成するのだ。
聴くための「ノンジャッジ」な ”在り方”
「指示・忠告・解決など」といった、コチラ側の思惑によって起こそうとする”バイオレンス”。
それを起こそうとする背景的な力として、”善か悪か”に代表される「ジャッジ」がある。
日常会話でも聴き手の話に対して「それはいい、これはよくない」といった”ジャッジを差し挟むこと”を、ついやってしまいがち。
これも「傾聴」の世界では、手放していく。
「ノンジャッジ」な ”在り方” を実践するためだ。
これも「ノンバイオレンスであること」同様、聴き手が安心して自分の話をできるようにするための ”在り方” を構成していく、大切な要素だ。
「ラビング・プレゼンス」の ”眼差し”
ラビング・プレゼンス。
まず自分の方から、相手の素晴らしさを感じ取ってしまい
その事にまず自分が心地よくなってしまう、という「心の在り方」だ。
そんなオープンハートな眼差しをもって、相手の話を聴く。
それは「ノンバイオレンス・ノンジャッジ」という地表を更に下支えする、重要な ”在り方” であり、構えなのだ。
こうした ”在り方” に支えられた「傾聴の ”場” 」というのは、話し手にとって非常に「安全・安心」があり
それ故の「信頼」が広がっていくものである。
「同感」と「共感」
日本人的な「同感」「同化」の美徳も
日常では、ついつい「相手と同じであること」を確認できた会話を ”是” としてしまい
それゆえに「同感できているかどうか」を度々ジャッジしては、一喜一憂する・・・という会話が多いもの。
しかし「同感だけがOK」という世界観もまた
「あなたの話していることが”聴き手である私”と合致しているかどうか」という「ジャッジとバイオレンスの世界」へ突入してしまうのだ。
ちなみに、”相手と「同感」ないし「同化」できる(できた)こと” が ”良い事である” という風潮、価値観は
特に日本人的な美徳とも結びついているものを感じる。
そしてその価値観は、不健全な状態に陥ると特に、「自他の境界線(バウンダリ)の侵入・不和」という問題が生じることになる。
「相手の領域」を、相手のものとして「共感する」
「自分との合致」はさておいて、あなたの価値観・あなたの感じ方を「あなたの領域」として、あるがまま尊重する。
それは、一つの相槌に集約するならば
(あなたは)そうなんですね。
意図のない結果として同感が生じているならば、それはそれでOK。
でも、聴き手であるこちらの価値観・観念の上で「いかがなものか、と思うもの」が相手の話から出てきたとしても
それをそれとして、そのまま「あなたはそうなんですね」と、尊重する。
これが、「共感」。
さらに言うならば・・・
それは、相手にとって ”何かわけがあって、そう思うのだ” という眼差しを向ける。
それは、相手にとって ”それだけの何かがあって、そう感じるのだ” という眼差しを向ける。
同情でも憐憫でもなく、「ラビング・プレゼンスの眼差し」で、クライアントのあるがままを、そのまま受容する。
「共感」と「受容」。
「ノンバイオレンス、ノンジャッジ、ラビング・プレゼンス」のという ”在り方の地表” に立ち
「共感」と「受容」を実践したとき・・・
「傾聴のプロセス」は、クライアントにとって 深い「安全・安心・信頼」の場となるのだ。
「そうなんですね」という あいづち に ”乗せるエネルギー” は
「同感・同化慣れ」している人、特に日本人にとって
「そうなんですね」という あいづち は、どうも「相手の領域の尊重」ではなく「冷たい突き放し」のエネルギーを感じやすいかもしれない。
そこで個人的はこの「そうなんですね」という あいづち に、こんなエネルギーを意識的に ”乗せる” ようにしている。
”私は、あなたがそう思っていいこと、そう感じていいことに、(既に)OKを出しています。
私はただその許しの地表を、あなたに差し出しています。”
自我を手放す助けとなる ”瞑想”
「バイオレンス」や「ジャッジ」が生ずるのは
聴き手に「私が理解・同意したい」「私にとって正しいかどうかを判断したい」というマインドが働くためだ。
それはつまり・・・「自我」の存在。
しかし、その自我から「完全解脱」できなくとも そこから距離を置く手助けとなる ”智慧” が、存在する。
それが・・・「(禅の)瞑想」だ。
思考を穏やかにし、すべてのDoingを止め、さらにその ”Doingを止めること、という執着” すら手放して
ただ「イマココの自分の存在」に、戻ってくる。
リラックスし、全てを「ノンバイオレンス・ノンジャッジ」で「受容」する ”境地” へと、瞑想するのだ。
そういえば、禅の教えである『正法眼蔵』に、こんな言葉がある。
「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、
これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。」
これは「瞑想的傾聴を実践するための ”在り方”」を直感的に表現するものではないかな、と思う。
「傾聴の ”在り方”」が整うことでもたらされる「エネルギー循環」
こうした ”在り方” の大切さ感じ取るために本講座では
あえて「フルバイオレンス、フルジャッジ、ノンラビング・プレゼンス」で傾聴するペアワークをやった。
いわゆる「感じ悪い聴き方」と、それによる空気感を味わうのだ。
無表情。
あいづちが無い。
目線が下に落ちる。
椅子にふんぞるように、寄りかかりだす。
腕を組む。
度々目線が逸れる。
上から目線になる。
”在り方の不調和” は こうした ”ノンバーバル領域” から、イヤ~なオーラを発し、それをクライアントは感じ取る。
・・・そんなエネルギーを浴びたクライアント役は疲弊し、萎縮し、苦笑い。
しかし、そういった ”エネルギー消耗” を起こすのは、実はクライアントだけではないのだ。
それをやってみた聴き手役もまた「これやってると疲れる!しんどい!相手の話を聴こうとしてるのに、入ってこない!」
傾聴の鍵を握るのが「やり方=テクニック」ではなく「在り方=心・眼差しの整え方」なのだ、ということを
否応なく体感する。
さて、今度は本来の「在り方」に、再チューニング。
「ノンバイオレンス、ノンジャッジ、ラビング・プレゼンス」のという ”在り方の地表” に立つ。
リラックスして、自我を手放すように、「瞑想的境地」になって。
「共感」と「受容」を実践すると・・・
講座の空気感が、ガラッと穏やかに、平和になる。
相手の話が、プロセスが、弾むように進んでいく。
それだけで気持ちが、癒やされていったりする。
先ほどまでの「衝突、摩擦、抵抗」のエネルギーは、もう無い。
受容と共感のエネルギーが、お互いの間に循環している。
エネルギーの周波帯が、見事に変容する。
・・・といったことを証明するかのごとく
ソル先生、登壇。
この可愛いソル先生。
他の講座でもそうなんだけど、その ”場” のエネルギー感が穏やかになるときに、スーッと”登壇”して下さる。
まさに動物的感性で、そういった”周波数”を感じ取る天才なのだなぁ、と いつも思う。
そして今回は特に、こんな超リラックス状態をご披露してくださった。
それだけ実際に「ノンバイオレンス、ノンジャッジ、ラビング・プレゼンス」のエネルギーが素晴らしかったのだ。
自分もスタッフとして見ていて、本当にそれをヒシヒシと感じたもの~。
それぞれのコアエッセンスを、感じる
「整った ”在り方”」をまとって傾聴ペアワークをしている時の、聴き手の方々を見ていると
なんとなく、人それぞれにエネルギー感が異なるのを感じた。
「ノンバイオレンス、ノンジャッジ、ラビング・プレゼンス」という共通項がありながら
それを放射する「コアのエッセンス」が異なる感じがするのだ。
「真摯さ」のエッセンスから「ノンバイオレンス、ノンジャッジ、ラビング・プレゼンス」を放射する人。
「好奇心」のエッセンスから「ノンバイオレンス、ノンジャッジ、ラビング・プレゼンス」を放射する人。
「探求心」のエッセンスから「ノンバイオレンス、ノンジャッジ、ラビング・プレゼンス」を放射する人。
「安らぎ」のエッセンスから放射する人。
「奉仕」のエッセンスから放射する人。
「守る」のエッセンスから放射する人。
それはまるで、その人のエニアグラム(性格タイプ)が透けて見えるような感覚。
とても不思議な感覚だった。
あらためて「聴くということ」とは
傾聴に必要なのは・・・「身構える」、ではなく。
その逆だ。
心身共に構えを「解き」、楽な ”在り方” で、全てにOKを出し、受容する。
話し手の「プロセス」に委ね、それを信じる。
そうすることで・・・「クライアントを癒やす、気づかせる」のではなく。
クライアントの中に、「癒やし・気づき」が、「起こる」のだ。
傾聴の「プロセスの主権者」は、話し手にあり。
傾聴の「”在り方”の手綱」は、聴き手にあり。
聴き手はただ ”安全・安心の舞台装置” となって、話し手を受容する。
そこへ自我すらも手放したとき・・・
聴き手はもはや、”聴き手”ですらなくなり、話し手と境界線が溶け合う「しなやかな鏡のようなもの」に、なっていく。
傾聴は、奥が深い。
そしてそれ故に、人間関係を、人生を、豊かにしてくれるものだと思う。
そして。
今回ご一緒させていただいた受講生の皆さんの「”在り方”をどんどんチューニングしていく力」がとても素晴らしくて、頭の下がる思いだった。
自分もスタッフとしてサポートしつつ、俯瞰的に復習できたことが沢山あり、濃い1日でした。
これからも学びを深めたいなぁ。
おしまい。