突然、不思議と降りてきた、感覚。

心身強制終了から、1年を過ぎ。
 
その原因が「自己抑圧・他社忖度」による「他人軸人生」であることを知ってから、半年を過ぎ。
 
どうにか今日まで、やってきた。
 
その間、自分が蓋をしてきた「怒り」と出会い。
またその奥にあった「悲しみ」と出会い。
 
自分が蓋をしてきた「イライラ」と出会い。
またその奥に合った「寂しさ」と出会い。
 
...そうやって、少しづつ少しづつ、これまでの自分の感情と向き合って。
 
「その感情を、覚えてもいいんだよ」と、自分に言ってあげられるようになった。
 
そうやって自分の感情を、ようやく抱きしめられるようになってきたことで
降りてきた、不思議な感覚が。
 

全ての葛藤は。苦悩は。・・・美しく、そして愛おしい。

自分の人生は確かに、本当はやりたくもなかった「自己抑圧・他社忖度」による
「他人軸人生」だったのかもしれない。
 
でも、この人生を歩まなかったら、そんな人生の辛さ、苦しさを。
そして、そんな自分に蓋をしてしまうことの恐ろしさを。
 
知ることが、できなかった。
 
そんな苦悩、葛藤、一人相撲、自己否定を。
これまでの人生を費やして、一通りやったからこそ。
 
知ることのできた事が、あるのだ。
 
そういう人生を歩まなければ知り得ないことを
自分は知ることができた。
 
だからこそ。
それを形作ってきた自分の葛藤、苦悩こそ
 
美しく、そして愛おしいもの、なのではないか。
 
突然、そう思えるようになった。
 

そんな心持ちになって、改めて周りに目を移してみる。

世の中には。
 
今まさに、悩み・苦しみの中にある人。
それを乗り越えて、より自分を輝かせようとしている人。
その両方を内包している人。
 
様々だ。
 
ただ、そこに共通しているものは
「よりよき自分に向かっていくことを諦めたくない、と願う姿である」
ということだ。
 
自己否定し続ける姿もまた、その姿の一つでしかない。
 
そして、たとえその人の内面では「辛さ」「苦しさ」しか起こっていないのだとしても。
 
そんなその人の、今の ”ありのまま” の葛藤・苦悩の本質は、
 
ただ
 

美しく、愛おしいもの。

 
...ただ、それだけなんだと思う。
 
だからこそ。
 
周りの人はその人に、頼まれもしないのに忠告したり、手を差し伸べる必要は、無いのだと思う。
 
なぜなら。
 
...そんなことしてあげなくたって。
その人の、今のありのままの葛藤・苦悩が
 

すでに美しく、愛おしいものでしかないから。

その姿こそ、その人が
”よりよき自分に向かっていくことを諦めたくない” と願う姿、だから。
 
 
...そうやって。
その人の今のありのままの姿に。
その葛藤・苦悩が、ただ美しく、愛おしい事に。
 
”よりよき自分に向かっていくことを諦めたくない” と願う姿 の美しさ、愛おしさに。  
ただ思いを寄せる。
 
それこそが、「相手に手を差し伸べること」以上の

「相手に寄り添う」ということなのではないか。

そう思うようになった。
 
 
 
でももし、その人が「手を貸してほしい」と言ったなら。
 
自分のできる最善のことを、やってあげてみる。
 
なぜなら、それが。
”一人で悩むその人” から ”手を貸してほしいその人” へと変容した ”イマココのその人”
 
の 美しさ、愛おしさ に寄り添う事であるから。
 

そんな心持ちで、最後に思いを馳せるのは

やはり、親と、自分。
 
自分はこうして「自己抑圧・他社忖度」による「他人軸人生」という、辛く苦しい生き方をしてきたけれど。
 
その源泉が、家族の歪みや、両親の育て方からの作用によったかもしれないけれど。
 
そんな両親は。
良いとか悪いとか、正しいとか間違いとか、ではなくて。
 
自分にそうしてきてくれた全ての葛藤や苦悩が、ただ美しく、愛おしかった
だけなのだ。
 
 
そして自分もまた。
そんな美しく、愛おしい葛藤や苦悩の受け取り方が、下手くそだっただけかもしれないけれど。
 
それが良いとか悪いとか、正しいとか間違いとか、ではなくて。
 
その自分の全ての葛藤や苦悩が、ただ美しく、愛おしかった
だけなのだ。
 
 
そして、そんな風に思えることこそが、もしかしたら
 

究極の「自己承認」なのかもしれない。

そして、全ての人の人生は。
上下も、善悪も、価値の有無も、そんなものなくて。
 
ただ美しく、愛おしい。

 
・・・それだけなのかもしれない。
 

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