
退治するのは、「そっち」だけ。
現在 大塚あやこ さんのもとで学んでいるビリーフリセット®心理学では、自己のイメージや行動を制限している否定的思い込みを「ビリーフ」として扱い、「それが真実かどうか」を探究します。
いわゆる「自己否定」「思考パターン」「心理ブロック」などと呼ばれるヤツです。
しかし、人はなぜその思い込み・信じ込みを、そもそも「その通りである」と信じて、思い込んでしまうのか。
なぜ、「それ」を「私が思い込むべき、信じ込むべきもの」として、無意識のうちに「私のビリーフとして採用」してしまうのか。
・・・その大きな一因は、人間関係のうちに息づいている、あるビリーフのせいではないか、と思うのです。
その「ビリーフ」を「ビリーフ化」してしまう、ビリーフ。
それは
「私より周りの方がマトモである」、というビリーフ。
・・・ではないかなぁ、と思うのです。
人は「心の傷」を味わわないための対策として「ビリーフ」という ”誓い” を立てる
ビリーフには、必ず「生成」というプロセスがあります・・・無意識だけど。
それは「何らかの形で”心の傷”を負ったときに、それを”二度と味わわないように”するために立てる”誓い”」として、生成されるんです。
例えば。
「私が思ったことを言うと、孤立してしまう」というビリーフの場合、過去にそういう「思ったことを言っただけ」という場面で「孤立の傷」を負ってしまったために立てられた”誓い”である、と考えられます。
このビリーフがあれば、今後「思ったことを言うことによる孤立化」を「回避」できる、というわけです。
そして、このビリーフは「過去のその場面」において「たまたまそうなった」だけかもしれないのに、その後の人生、例えばリアルの人前やSNSなどの情報発信においても「思ったことを言えない」という行動制限となるなど、度々「人生のマイルール」として再燃します。
で、話を戻すと。
なぜそれを、常に本当のこととして「私、そう思い込まなくちゃ・・・採用っ!」としてしまうのか。
それは結局、「私より周りの方がマトモである」と思い込んでいるから、なのです。
この「私より周りの方がマトモである」というビリーフが発動しなければ。
・・・つまり、その傷を追わせた周りのことを「コイツ、マトモじゃねえわ」と、思えたら。
そんな「マトモじゃねぇ人や状況」から受けた傷を洗い流し、それ以上の「誓い=ビリーフ」を立てずに済んで終了、のはず。
だけどそうならないのは、なぜか。
「私より周りの方がマトモである」の原風景は
・・・この「私より周りの方がマトモである」というビリーフもまた、人の無意識下にあります。
そして、この「私より周りの方がマトモである」というビリーフを生成した、原風景。
「周りの人たちはマトモなのだ」と、つい知らず知らず信じ込むに至った、原風景は・・・
・・・そう。
やっぱり「そこ」じゃないか、と思うんです。
・・・つまりは「親との関係性」から、です。
誕生の瞬間から回避できない「無力 vs 万能」の図式
産まれた瞬間の子どもは、”生存”ということに対して非常に「無力」です。
対し、その 生”存”与奪権 を握る親のことを、おそらく無意識的に ”万能” と捉えます。
そんな ”万能” な親のことを・・・
コレすなわち「マトモ」、と思い込んでも、それは無理もないのです。
親は・・・人は・・・本当に「24時間×365日×360度、マトモ」なのか?
あの時と比べて大人へと成長した、今のあなたの目線で、あの”親の世界” や、今の”大人の世界” をみてみましょう。
クッッソしょーもない大人、いっぱいいるでしょ??(笑)
そして、何より・・・
自分自身を見つめてみても、クッッッッッソしょーもない場面や時間帯の自分が、沢っっく山いると思うんだ(あれっ、ワタシだけ?w)
大人になった今なら「あぁ、あの時マトモじゃなかっただけかも」って、思えるかもしれないのです。
あくまで「あの時のあの人」が、たまたまマトモじゃなかっただけなのです。
「24時間×365日×360度、マトモ」な大人なんて、いないのです・・・自分も含め、ね。
人間の意識には「マトモ時間」と「バケモノ時間」がある
「マトモ時間」・・・それは要するに「愛のある、安全で安心なあの人」である時間帯のこと。
「バケモノ時間」・・・それは要するに、その反対。
で、人は「バケモノ時間」のときに、「マトモじゃなくなる」わけです。
そして、この「マトモじゃない」というのは、要するに
自我が捻じくれて、暴走している ”不健全な状態”。
この話を、「親」にフォーカスすると・・・
親にだって「愛ある健全な”マトモ時間”」と「愛のない不健全な”バケモノ時間”」がある、ということ。
そして、子どもは・・・
「バケモノ時間の親」に触れた時、傷つく
のです。
▼たとえば、こんな風に「心(自我)の健全度」が上下しながら、人生を進む親がいます。
▼そして一方、こんな親もいるでしょう。
そしてもしかしたら、本当に「バケモノ時間」しかない親も、いるかもしれません・・・恐ろしいことですが。
それでも「あの親が、マトモだった」という ”無意識の思い” が捨てられないのは
それはあなたが、あの親の「愛あるマトモ時間 が ”かつてあった”」ことを、知ってしまっているからです。
それが、たとえ一瞬であったとしても。
・・・そして、それを健気に握りしめているからこそ、
①親の「(実は)バケモノ時間」によって、傷つく
↓
②原初の「私より周り(=親)はマトモだ」というビリーフを健気に発動させる
↓
③「バケモノ時間」を「マトモ時間」と勘違い
↓
④その傷への対策(誓い)として「ビリーフ」を生成する
というプロセスを、踏んでしまうのです。
そのため、ビリーフが「結局勘違い」に着地する理由は、上記③の「バケモノ時間」を「マトモ時間」と勘違いしているからなのだと思います。
そして・・・
「バケモノ時間」を「マトモ時間」と、勘違いする。
ここにこそ、「相手がマトモで、私が悪いんだ」「私が相手を救えなかったんだ」という罪悪感のエネルギーとつながるポイントがありそうです。
・・・そしてそれは、子どもにとってはもしかしたら「”バケモノ時間” を ”マトモ時間”と信じたい」のかもしれません・・・
愛ゆえに。
でもそこにはやはり、傷がある。
その傷を、ビリーフによってこじらせないで、「自分自身を大切にする」ためにこそ・・・
その内なる「バケモノ時間」を、退治する必要が、あるのです。
内なる「バケモノ時間」を、退治する
あの人、あの状況から引き受けた、内なる傷=内なる「バケモノ時間」を、退治する。
・・・それは、”ある一言”に集約するならば、「コレ」です。
「コレ」を、あなたが引き受けた 内なる「バケモノ時間」にぶつけて、退治することです。
例のアレ、いきますよ~。
あなたが引き受けた 内なる「バケモノ時間」に、ちゃんと「うるせーバカ!」って、言う。
あなたが傷ついた「バケモノ時間」を、「バケモノ時間だった」と、認めてあげる。
「”マトモ時間だった” という勘違い」を、解いてあげる。
・・・ある意味、ビリーフリセットというのはこれだけかもしれません。
そしてこれは、 ”大人のあなた” が、あなたの中の ”傷ついた内なる子ども” にさせてあげる「協力プレイ」のようなものでもあります。
内なる”バケモノ時間” に「うるせーバカ!」って言っても、大切なあの人たちの ”全否定” にはならないから大丈夫
「うるせーバカ!」と言い放って退治するのは、あの時の「バケモノ時間」だけ。
そのせいで、あの 大切に握りしめてきた「マトモ時間」まで”全否定”することにはならない。
だから、大丈夫なのです。
それどころか、あなたはあの相手だけでなく、自分自身も、今まで以上に大切にできるようになっていくのです。
「すべてが愛だった」と思えるようになってもいいし、思えなくてもいい
そうやってあの「バケモノ時間」と ”お別れ” できるようになると・・・
不思議と、「あのバケモノ時間も、愛だった」と”気づく” 瞬間が、来ることもあります。
それは、もしかしたら。
・・・「あのバケモノ時間の背後にあるものもまた、あの人たちの ”傷” ゆえのものだった」こと。
そして、その傷の内にある「あの人たちの悲しみ」に、気づく瞬間なのかもしれません。
”何か訳があって、あのようであったのだ” ”それだけの何かが、あったのだ”と、思える瞬間が、あるかもしれません。
でも「そんな風に思えない!私は嫌だった!それだけ!」であることがあなたの本音であるなら、無理にそのように思う必要もないのです・・・それが「自分(の本音)を大切にする」ということだから。
最後に
何かがあってあのようになっていた、あの「バケモノ時間」を、「バケモノ時間だった」と認めて、その「あるがまま」に戻すこと。
それを、つい無意識下で阻むのが「私より周りの方がマトモである」というビリーフである可能性があること。
そして、それがどのように存在することとなったのか。
・・・そんなことを、つらつらと考察してみました。
そして、そんなビリーフを健気に握りしめてきたインナーチャイルドを救い出し、その思い込みを解放できるのが、今の自分自身であると思います。
おしまい。