「信じる」の一歩先へ。

 
「信じてたのにーーーー!!」
 
・・・って、怒る人がいる。
 
信じてたのに裏切られた、と嘆く。
 
でもそうやって嘆く人が信じているものって、結局その ”相手” ではなくて

相手は自分の考える通りに動いてくれるべきだ、という「自分の想定」

だったりするわけで。
 
そして他人というのは、そんな想定通りに動くわけが無いわけで。
 
だって、別の意志を持ってるんだもの。
 
だから「自分の想定」を同化させようとする人に対して窮屈になって
 
離れちゃう。その人からの「コチラに対する想定」を、裏切っちゃう。
 
コチラが「自分自身を裏切らない」ために。
 

相手をつい「想定」し「同化」してしまう人にある、「背景」。

それは、ある意味シンプル。
 
その人自身が「私は相手の想定通りに動かなくては!」ばかりをやっているのだ。
 
相手が自分にどう期待し、動いてほしいのか。
 
そればかり観察しては、やってばかりいるから、今度は相手にも同じものを求めるのだ。
 
よっちゃんは、まさにコレだった。
 
そして、相手は自分に対して「こう動いてほしい」なんて
さほど思っちゃいないことに気づくまで、時間がかかったなぁ。
 
こちらが他人軸をやっていると、窮屈になるのは自分だけではない。
相手も窮屈になるのだ。
 
こうして「自分の想定した、あるべき相手」を

信じるから、あるがままの相手を信じられない。

 

互いを尊重するための「信じる」とは。

ちょっと、車の運転に似ている気がする。
 
車を運転している時って 
他の車が、歩行者が、自分の想定通りに動いてくれることを、信じて運転するだろうか。
 
答えはNo。そんなことしたら危険極まりないのだ。
 
つまり、車の運転中は、周囲が自分の想定通りに動くだなんて、信じていない。
 
もっと言えば ”周囲は自分の想定通りに動かない” 、ということを

信じている。

相手の意志、自主性を、信じている。
 
相手が相手の意志で動く権利、自由を、信じている。
 
そして。
 
これによってこちら側も、こちら側の判断で行動する自由が生まれる。
 
 
相手は、こちらが勝手に想定していた窮屈さから、自由になる。
自分は、その上でどう判断し、対応するか、という自由が生まれる。

相手はこうあるべき、という想定を

「信じない」から、ありのままの相手を「信じられる」。

 
これが本来の、一歩先の、「信じる」ではないか。
 
そう思うのだ。
 
 
おしまい。

おすすめの記事