
久々のブログ更新。
そして、これがどれほど読む方に伝わるものなのか、また有益なのか、もはやわかりません。
自分にとっても意味のあるものなのかどうか・・・
アヤシイ表現ばかりに、なるかもしれません。
表現が小難しく仰々しいだけで、書いてあることは単純であるように思います。
・・・わからないけど、それでも、書きます。
前回の記事の、続きとして。
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これまでの「自己探求」と呼ばれるものの果てに出会った、出会ってしまった、「なんとしても見たくなかったもの」。
それは
「”自分が自分である”という感覚に触れたくない自分」でした。
そして、そんな自分を生み出す原因となっていたのが
「自分が生きていること、そのものに対する”大丈夫感の無さ”」という「体の感覚」であった、ということに気づいたのです。
「自分が生きていること、そのものに対する”大丈夫感の無さ”」という「体の感覚」。
・・・「心の状態」などではなく、「体感覚、そのもの」である、ということ。
・・・それはもはや、「心理アプローチ」ではどうにもならない要素を孕んだ感覚なのかもしれないと、思っています。
これこそが「言葉にならない、生き辛い感覚」の正体なのではないか、と思っています。
だからこそ、「生きるためには”この感覚の存在”に触れてはならない、なんとかして逃げおおせるのだ」と意識したとき、
”それ”に直面、暴露しないようにするため
・「お利口さんの鎧」「お上手の鎧」といったアイデンティティを作り上げ、これらを使って”それ”を見ないように覆い隠す
・意識を、自分の体感覚そのものから遊離させる
といったことをやり、
・「”自分が自分である”という感覚の存在に、意識そのものが近づかないようにする」ということをしてきたのだと思います。
そしてまた、このような”回避策”には「自分を置き去りにし、他人軸になること」といったことが大いに役立ったのだと思います。
しかしながら、自己探求の果てに、「なんとしても見たくなかった、感じたくなかったもの」を覆い隠してきたアイデンティティなどの”保護膜”が剥がれ落ちてしまったとき、
どうしても向き合いたくなかった「”自分が自分であること”からの逃れられなさ」が、自分の核から噴出しました。
ということは。
それと同時に「そんな”自己回避な自分”が生きていること、そのものに対する”大丈夫感の無さ”」という「体の感覚」が、噴出せざるを得なくなったわけです。
・・・これらの感覚は、まるで神経毒のように体中を蝕んで、体を動けなくしました。
これらは、これまでの自己探求のなかで、最も激しく、危機的な「体反応」でした。
目の焦点は合わず、不安や恐怖を超えた危機的感覚に飲まれ、命そのものが退縮していくかのような感覚が止まらず、パニックになりました。
食欲は無いのに、食事を目の前にすると、なぜかものすごいスピードでそれに食らいつく自分がいました。
全てに対して虚無しか感じない自分がいました。
この「起きている体感覚」を、「過去のストーリー」と符合させると、いくらでも自己否定・自己批判・後悔の念を生成することができます。
しかし、それすらも意味がないほどに「この起きている感覚」は根源的で、非言語的なのだ、という感覚に至りました。
「非言語的な体感覚・体反応」が ”本丸” であるならば、それを「心の問題」として「翻訳・描写」することはあまり有益ではないと思い至りました。
「”マグマ”をなんとかしなければ」と思っているところに、そこから ”水蒸気” を生成し続けても、仕方がないのです。
これまでの「心の言語化」を担っていたアイデンティティがいなくなったため、自分のなかの”言葉”が沈黙し、ブログも書けなくなりました。
ひたすらに「言語を超えた、これらの体感覚」と言葉なく対話し、対峙しました。
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そんななかで自分が「言葉なき体の声」に従って、まずやったことは「お腹とみぞおちを温める」という行為でした。
なぜか、そうしたかったのです。
それはまさに、体からの指令だったのだと思います。
季節はずれのアンカを取り出し、ひたすらに温めたのです。
とにかくそうやって「言葉なき体の声」に従って、僕は体を「あたため、ゆるめ、ほぐし、ととのえる」ようにすることで、
全身に回ってしまった”体反応という神経毒”を、少しずつ少しずつ、自ら飲んでいくような日々を過ごしました。
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人は、「(私という)意識」と、それを宿すための「体」”だけ”で出来ている。
・・・僕は今、そんなことをあらためて痛感しています。
そしてその「意識」と「体」のマッチングは、一生変えることができない。
・・・あまりに当然なその真実こそが「人が他の誰かに成り代わることができない」所以であると思います。
そして僕は、上記の”体反応という神経毒”を味わいながら
今まで自分が意識の底で、いかにその”真実”を回避したがっていたか、ということに気づきました。
「自分そのものを、誰かに替わってもらいたい」と、異常なほどに心底思っていた、ということです。
なぜなら、そうすることなく「自分が自分であることが避けられない」という感覚に触れてしまったら
それは即ち「その自分が生きていることの大丈夫感の無さ」、つまり「自分が生きているという危機」に触れてしまうことになるからです。
「生きるも危機」、「死ぬも危機」。
その双方のエッジに挟まれることになるのです。
圧倒的に安堵なき体感覚と、それを捉え続ける意識の世界。
・・・それはまさに「根源的な生き辛さ」とも言えるのかもしれません。
・・・僕の「意識と体」の世界というのは、そういう世界だったのだ、ということが
ようやくわかりました。
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「自分が生きていることの”大丈夫感”」が「体の感覚」として備わっているかどうか。
・・・それはおそらく、人生全体に対する「生き辛い、という感覚」という部分に大きく影響し、左右するように思います。
その大丈夫感が無いと、自分のニーズも、自分そのものも、内外に発することが困難になるのです。
そして、繰り返し強調するならば、それは「心の問題」ではなく「体の感覚」なのだ、ということです。
そしてまた、その「体の感覚」が備わっているかどうか、という問題は
もしかしたら「その人の言語獲得以前の時期及び領域」において左右されるのではないか、と直感しています。
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「心」や「感情」というアプローチを繰り返しても、「なんともいえない生き辛さ」が変わらない人。
・・・そういう人たちにとって必要なのは「心理」ではなく、
「”身”理の声を聴くこと」かもしれません。
根源的な生き辛さの感覚を産んでいる「体感覚・体反応」というのは、おそらく
根深いところでの、体の「ひえ・こり・こわばり・みだれ」といった感覚及び反応に起因しているものだと思います。
それは、体の部位レベルかもしれないし、細胞レベルで起きているものかもしれません。
そしてそれは、根深いところでの意識と結びつきが強いのだと思います。
ですから、それと逆のアプローチを「体」にかけてあげればよいことになります。
つまりは、からだを「あたため・ほぐし・ゆるめ・ととのえる」ということです。
例えば、温泉に行ってみる。
その他の温熱療法を体験する。
ヨガに参加する。
マッサージやストレッチのボディケアを、施してもらう。
素手で、素足で海に触れ、大地に触れ、アーシングする。
そうした単純で、身近なアプローチです。
そして、最も効果的なものの一つが、「文字通りの”手当て”を受けること」。
・・・文字通り、人から「自分の体に”手を当てて”もらう」、ということです。
僕は、とある心理セッションの流れから、その場に同席していた数人の人たちに「ただ手を当ててもらう」という
非言語的なセラピーへと流れをシフトしていただく機会がありました。
そして、その”手当て”によって「自分が生きていることの大丈夫感が、”体の感覚として”非常に薄いこと」に気づくと同時に
その手当てによってこそ「”大丈夫感”が体をホールドする意識感覚」を味わうことができたのです。
これらはとてもシンプルですが、深い感覚をもたらしてくれるように思います。
「心理」ではなく。
「”身”理の声」を、聴くこと。
不用意に、「心の問題」としてアプローチしない。
・・・「心」や「感情」というアプローチを繰り返しても、「なんともいえない生き辛さ」が変わらない人には、一度試してほしいのです。
そして。
・・・あなたが「”身”理の声」を聴くために、意識を傾ける相手は、
あなたの「からだ」、そのものです。
常にあなたと共に在る「からだ」こそが、あなたのマスターになるのです。
そしてまた。
「”身”理の声」は・・・命の声、そのものです。
だから人は、自らの「命の声」を聴いたとき、
・・・「それでも生きる」、が芽生えるのではないか、と思います。