”身”理へ、還る。

心の探求の果てに感得した、生きづらさの正体。
それは、心理的なものというより「自分が生きていること、そのものに対する”大丈夫感の無さ”」という「体の感覚そのもの」であったこと。
それと同時に感得したのは「こころ、というものは、『体感覚というマグマ』を比喩的に描写し、表現し、言語化したものであって、そのマグマから無尽蔵に生み出される “水蒸気” に過ぎない」ということでした。
(参考記事:「体感覚・体反応」という”地雷原”
 
それ以来僕は、自らの生きづらさをケアするためのアプローチとして、「心の “あり方” を整える」というアプローチを捨てました。
 
そして、その奥にある「体感覚の安定」と「体反応の寛解」へと取り組むことにしました。
 
つまり、あれだけ学んできた「心理」を捨て、「“身”理へ還る」ことにしたのです。
 
 
 
僕が「体感覚の安定」と「体反応の寛解」のために、ずっとやってきたことは、こうです。
 

①「こころの言葉」は、単なるきっかけとしてのみ使う

・・・人は生きづらさを感じているとき、それを心の中で言葉にしています。
それは無価値感だったり、無力感、罪悪感、異質感、存在否定、といった自己否定の言葉だったりします。
 
でも、僕が取り組んできた方法は、そこから「心理アプローチ」へと進みません。
その”奥”に進むのが目的だからです。 
 
僕の「身理アプローチ」は、そこから「体感覚・体反応」のみを捕捉します。
つまり、「あなたがそのように”こころ=水蒸気”を描写し、比喩し、表現し、修飾したところの、今起きている“それという体感覚・体反応”はどれか」だけを、意識の力を使って探し当てます。
 
「心理アプローチ」のもたらすストーリー、ドラマ、奥深さ。そしてそれを紐解いていくロマン、神秘性・・・そういった “こころ=水蒸気の世界” には一切関与しない、ということです。
 
こころ、という水蒸気は、身理というマグマへアクセスするためのきっかけでしかありません。そしてその水蒸気が「無価値感」と自己比喩されたのか、「罪悪感」と自己演出されたものなのか・・・それらはその製造元であるマグマの前では、どれであろうがどうでもよい、ということです。
(その理由は、それらはどのみち真実ではないことが露見することになるからでもあります。)
  

②「こころ」を沈黙させ、「からだ」と「意識」だけになる

・・・こころの言葉をきっかけに、その奥にある本丸=「体感覚・体反応というマグマ」を捕捉したら、そのきっかけに利用した「こころ」の一切を沈黙させます。
 
つまりは、「ノンバーバルになる」、ということです。
「からだ」と「意識そのもの」だけになる、ということです。
 
「からだ」と「意識」だけになることで、生きづらさの本丸である「体感覚・体反応というマグマ」がくっきりと現れてきます。その時どうしても「あぁ、これは無価値感だ、無力感だ、罪悪感だ、怒りだ、悲しみだ、あのときのものだ・・・」といった「言語化の嵐」が起きることがありますが、その水蒸気も沈黙させていきます。
 
その「体感覚・体反応」につけてしまっている名前の一切をも、取り去ります。
 
あなたは「からだ」と「意識」、そして捕捉した「“それ”という体感覚・体反応」だけの存在になります。
 

③その「体感覚・体反応というマグマ」に、ただ「大丈夫だよ」と、「ノンバーバルに声掛けをする」

・・・②の状態になったら、そこにある「生きづらさの体感覚・体反応というマグマ」に対して、「大丈夫だよ」という声かけを、“ノンバーバルに”行います。
 
「大丈夫だよ」という声かけを、“ノンバーバル”に行う・・・という表現は矛盾めいて響きますが、つまりはどういうことかというと
 
「その体感覚・体反応と、ただ共にいるようにする」、ということです。 
これが、「大丈夫だよ、というノンバーバルな声掛け」になるのです。
 
言葉の邪魔・こころの邪魔を廃し、沈黙によって顕在化させた体感覚・体反応と、ただ共にいるようにすることで、からだはそのホメオスタシスの力によって、そのマグマを自浄していくのです。
 
こうして僕は、生きづらさを生み出す「心=水蒸気」ではなく、さらに根っこにある「体感覚・体反応」に直接アプローチする方法を取り続けてきました。
 
BodyとConsciousnessだけを使う。
過去や未来へ彷徨いたがる「こころという水蒸気」を沈黙させる。
その奥にある「体感覚・体反応」という、「今ここで起きているマグマ」のみに、ダイレクトにアプローチする。
そのマグマを、自浄によって緩め、ほぐし、整えていく。
 
・・・そのことにより、僕の生きづらさは、一歩ずつ「安定と寛解の道」へ進んでいます。
そしてマグマの安定・寛解は、そこから生み出される水蒸気=こころ の安定・寛解に繋がります。
 
 
この一連のプロセスが、ノンバーバルなまま、行われます。
 
 
この方法は、自分のからだと意識そのものが教えてくれたものです。
取り組むための学びも必要無いし、誰かに料金を払う必要もありません。
カウンセリングでもないし、セラピーでもヒーリングでもありません。
ワークでもなければメソッドでもないし、テクニックでもありません。
 
単なる「それ、という体験」です。
 
 
これが、僕の取り組んできた、あまりにも単純な「身理アプローチ」です。
 
 

おすすめの記事