あれも、愛の”つもり”だった。

ビリーフリセット®カウンセリング講座、第4講終了。

カウンセラーであり、音楽家としてもご活躍の大塚あやこ さん の独自メソッド、ビリーフリセット®を学び、カウンセラー、ないしカウンセリングパーソンを育成する講座。

今回は、これまでの学びをより「深める」学びが中心となった。

そして、その講座中にふと講義内容から少し外れた「愛の定義」に関する話がとても印象的で、深く頷きながら耳を傾けた。

思い込みもまた、愛ゆえに

以下は、そのときの話を元に、自分自身が考えたことを交えて書いてみようと思う。
 
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今の生き方を制限する思い込み、ビリーフというのは、たいてい・・・
その原型が幼少期、特に「親との関係」の中で生成されることがほとんどだ。

・・・子どもはその無垢さゆえに、日常で起きたちょっとした親とのすれ違い、思い違いが「傷」となる。
それは親の「成熟したモノサシ」からすると、そこまで傷つくようなことでもない、ほんのちょっとした場面でも起きうる。

「親にこうあってほしかったのに、そうではなかった。」
「親にこうしてほしかったのに、くれなかった。」

子どもがその無垢さゆえに、そう捉えてしまうことで作られる、傷。
そして子どもはいつしか、そう傷ついた自分を納得させるさせるために、あるものを自分の中に作る。

それが

思い込み=ビリーフ。

そうだったのは、自分に価値がないから。
 
ああじゃなかったのは、自分が恥ずべき存在だから。
 
ああ言われた自分は、見捨てられる。
 
ああされた自分は、愛されない存在なのだ。
 
 
 
・・・その傷の正当性を証明するために、そうやって「思い込み」を作る。

そしてその「思い込みの種」は、成長とともに発達する「自我」によって、どんどん「衣」をまとっていく。
「自我」がその「証拠探し」をし、それが正しくあるための事実を ”引き寄せ” 続けるのだ。

そして「ほら、やっぱり」という ”生き方のパターン” を繰り返す。

しかし、その ”生き方のパターン” を繰り返させるビリーフが生まれる ”そもそもの原因” は・・・

「愛の定義」の違いによるものなのだ、という。

人それぞれ違う、「愛の定義」

「愛の定義」は、どうも人それぞれ違うようだ。

その親にとって、愛とは。

厳しく躾けること。
何でも決めてあげること。
自身を立派に見せること。
あまり踏み込まず見守ること。
何でも教えてあげること。
とにかく心配すること。
喜ばせようと振る舞うこと。
手厚く与えること。
手出し口出ししないこと。
 

・・・それが、子どもに安全・安心を感じてもらうために、必要だ。

それが愛・・・

の、つもりだった。

でも、それが子どもがそれまで積み上げてきた「愛のパズル」にとって、必要なピースでないことがあった。

本当は、そうじゃなくて・・・

ただ優しくしてほしかった。
自分で決めたかった。
緊張を解いてほしかった。
もっと突っ込んできてほしかった。
胸の内を聴いてほしかった。
もっと気にしないでほしかった。
しみじみ語り合いたかった。
自分で挑戦したかった。
もっとアドバイスがほしかった。
 

・・・欲しかったピースが、得られなかった。

そして。
そんな「パズルの空白」ができてしまった自分は・・・

見捨てられる人間だ。
能力のない人間だ。
孤立する人間だ。
恥ずべき人間だ。
失敗する人間だ。
価値のない人間だ。
愛されない人間だ。
 

そうやって「ピースが得られなかった理由」を、その傷ゆえの”思い込み”という形で自己説得してしまう。

でもその「パズルの空白部」はやっぱり、人に・・・見せたくない。

そして何より・・・

自分に、見せつけたくない。

すると、その傷を「見えなくするためのピース」を、探し求め始める。

見捨てられないためには、人の期待に応えなければならない。
無力にならないためには、知識経験を得続けなければならない。
孤立しないためには、どんな人ともうまくやらなければならない。
恥をかかないためには、自分を表に出してはならない。
失敗しないためには、余計な挑戦はしてなはらない。
無価値にならないためには、結果を出し続けなければならない。
愛されるためには、足りないすべてを磨かなければならない。
 

・・・こうしてまた、どんどん思い込みが生成されていくのだ。

「傷」ゆえの思い込みが生まれ、更にそれを無いことにしようと頑張る「自我」が、さらに ”思い込みの衣” を作り上げる。

こうして巨大化した「思い込みの天ぷら」が、絶えず自分の人生を「やらないとダメになるぞ!」と恫喝し続ける。

親にとっての「愛の定義」だったものが、子どもにとって「ちょっと欲しい形と違った」というだけのことだったはずが・・・
こうなってしまい、それが大人になっても人生に尾を引いている場合が、あるのだ。

思い込みを解くために、”ほんとうのこと” へ戻る

だからこそ、その思い込みを解くために、光を当てるのは・・・

「ほんとうのこと」

思い込み故に繰り返してきたストーリーの中から、共通している「ほんとうのメッセージ」を、すくい上げる。

その人にとっての、ほんとうの「したかった」「ほしかった」「イヤだった」・・・を、思い出す。

それを押し込めてきてしまった理由・・・その「根源的な恐れや不安」が、実は「小さくて無垢で、でも健気なものだったこと」を、思い知る。

そして。
そこまで邂逅することで、ようやく見えてくる。
・・・なぜ自分が、その「思い込み」を、こんなにも捨てられなかったのか。

それは

あの親にとっての「愛の定義」を、壊したくなかったから。

自分のほしい「愛のピース」を、無理に要求したくなかった。
自分の欲しかった愛のかたち、”愛のピース” でなかったとしても、それでよかった。

・・・そうやって、自分の「思い込みの底」にあった「ほんとうのこと」を、思い知る。
「自分のほしい愛のかたち」ではなかった故の ”傷や思い込み” を引き受けてきた、その”謎”を、その自らの手で、思い知る。

・・・愛ゆえのものだったことを、思い知る。

自分の中に、愛があった。
その愛で守りたかったものこそ、あの人のいびつな「愛の定義」、だった。
そしてそれこそが実は、自分の欲しかったそのままの「愛のピース」、だった。

・・・「思い込み=ビリーフ」によって探し求め、彷徨い続けていたものが、既にそこにあったことを・・・思い知る。
こうしてビリーフは”お役御免”となり、解放され・・・「愛のピース」がようやくにして、その空白にピタリとハマる。

「ほんとうのこと」が、「ほんとうの場所」に、帰っていく。

愛もまた「二元性」を超えて

「愛の定義」が人それぞれ違うこと。
そのすれ違いが傷となり、思い込みを産み、人生を生きづらくしうること。

それを知っておくことで「あれもまた愛のつもりだった」、と俯瞰できるようになり、自分を楽にすることができるかもしれないこと。

・・・そんな話が講義の中で及んでいくと、講師のあやちゃんはもう一つそこに、ある「ビリーフ解放」を付け加えた。

それは
「親子の間に愛があっても、なくても、どちらでもよい」というもの。

「親子の間に愛がなければならない」は結局、「ある・ない」の二元論。
そしてその思い込みは、ときに執着となり、人を苦しませることもある。

あやちゃんの言葉は、そんな「愛の有無」という二元性にさえもメスを入れる。

この言葉は一見、愛の存在に対して冷やかなものに聴こえるかもしれないけれど
この二元性を超えたメッセージもまた一つの「愛」であり、あやちゃんの深い慈悲を感じた。

そんなあやちゃんの好きな「愛の定義」とは・・・

「愛」とは、 ”(ただ)そこにいていい” こと・・・なのだそう。

「存在」という名の「ほんとうのこと」に対して、ただ無条件にOKを出しているような、この言葉にもまた・・・深い愛、深い慈悲を感じた。

ライヴセッションにて 「肚で生きる人」を体験する

そんな話の出た1日目に続き、2日目は仲間がクライアントとなり、ロールプレイ式のライヴセッションをやった。

そこで自分もクライアントに指名され、役を引き受けることに。

クライアントを取り巻く人間関係の ”座を立てる”。

自分はその中の1人となると、不思議とその関係性の中で ”その人” が自分の中に ”降りてくる” 。

・・・こうして書くとアヤシイ感じだが、自分でもこのセッション中は不思議と、そうなるのだ。

しかも、自分自身は会ったこともない ”その人” は、クライアントにとっても不思議なほどリアリティのあるものになっているらしい。

そして、今回自分に ”降りてきた” その人は・・・まさに「肚(はら)のエネルギーで生きる人」だった。

普段の自分とは異なるエネルギー感覚が、自分の中に ”降りてくる” 。

そして、その人の生き方は・・・

ウダウダと過去に生きたりしない。
四の五の言わない。
言い訳しない。
回りくどいの、キライ。

肚のエネルギーで、ググッと、自分を、人生を推進する人。

・・・そんな人、だった。

そして、このライヴセッションに関わっている時というのは、不思議と ”2人の自分” がいる。

「1人目の自分」は、ただ”その役”を”降ろしている”自分。
「2人目の自分」は、その”役を降ろしている自分”を「俯瞰的に体験・体感している自分」だ。

実は、この「1人目の自分」については、どんな言葉を吐き、どう立ち回っていたのか、具体的な記憶がない。

しかし、「2人目の自分」は、その「肚で生きるエネルギー感」を、非常に気持ちよく「体験」していた。

普段の自分とは異なるエネルギー感が、とても新鮮だった。

・・・と同時に、この役を”降ろせる”ということは・・・
「自分自身にもそのエネルギー感が眠っているのでは?」と考えてみたくなった。

そう考えると、今回の”体験”は、これからの自分自身にとっても「肚の活性化」のきっかけになるかもしれない、と思う。

貴重な体験をさせていただいた仲間に、感謝したい。

・・・そんな2日間を過ごしたBRC講座も、あと1回で「ベーシック」のカリキュラムが修了することになる。

ここでお別れになる仲間もいるかもしれないと思うと少し寂しいが、引き続き仲間と豊かな学びを続けていこう。

おしまい。
 
 
 

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