
この1年。
僕自身の生き辛さの正体が、心理ステージ以前の「身理ステージ」、つまり「自分が生きていること、そのものに対する”大丈夫感の無さ”」という「体の感覚そのもの」にあることがわかってから、以前に書いたこの記事の通り、自らの体感覚・体反応のケアを続けてきました。
そしてこれは、いわば「沈黙との対話」なのだということが、わかりました。
持ち続けたままの観念や無意識下にある前提、
それらから成る信念体系・人生脚本。
それによって繰り返される同質の心理ドラマ、人生ストーリー。
それらをなんとかしようとする中で得る、
「気づき」という名の哲学や「癒やし」と言う名の詩情。
「心という深い海」、と言う名のロマン。
・・・そういったもののすべてを、ただ「そうある状態」として置いたままにしつつ、
非言語のまま放たれる「体からの教え」に寄り添ってきました。
「私の沈黙」でもなければ「私という沈黙」でもない、
ひとつの ”場所” とでも言うべき ”沈黙” を度々訪れ、
そこからの教えに導かれながら「”身”理のケア」をしてきました。
その文字通りの”体”験をブログ記事にしようと度々思うものの、
結局、その伝えたいこと全てがこの記事に帰着してしまうことが、わかってしまいました。
僕はどうやら、この記事で ”何かを書き切ってしまった” ようなのです。
それだけ、僕の中で一つの「統合が起きた」ということなのかもしれません。
そして、この「統合の代償」は、僕にとって余りにも大きなものでした。
統合の代償
僕の知りたかった「生き辛さの根っこ」や、そこへのアプローチの次元が
「心理」から「身理」にシフトしてしまったことで、
あれだけエネルギーを注いできた「心の学び」、そして「カウンセリング」「セラピー」といったものが、
突如として、
あまりにもあっけなく、
「残念ながら僕にとって、”そこ” ではなくなってしまった」のです。
僕にとってはあまりにショックな代償として、
この「確かな感覚」が、起きてしまいました。
とてもとても残念で、そして自分の感覚に愕然としました。
この感覚を言葉で伝えるのは、何とも難しいです。
でも、今思っていることが、ひとつあります。
僕は「心理ステージの学び」に行くためには、
その土台である「”身”理ステージ」を、まず整える必要があるのだ、ということです。
だから、そこからもう一度やり直しながら、人生を進めていこうと思います。
今回の僕に起きた統合は、前進・進展といったものではなく
順番を守るための「後退」なのだと、思っています。