【羽黒修験】すべては ただ ”うけたもう” なかに ~大聖坊山伏修行体験記~

ただの ”いのち” に、還る旅。

出羽三山。

山形県村山地方・庄内地方に広がる、「月山・羽黒山・湯殿山」の総称。
修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集める霊場だ。

そんななかでの羽黒修験は、山岳信仰は勿論 自然信仰・神道・仏教・その他の宗教思想哲学を混淆包含した独特の体系を持つ。

そして、そんな多種多様なものを受け入れてきた羽黒修験の ”器の大きさ” を象徴する言葉が

うけたもう。

どんなことも、まず”受けて”みる。
そのあるがままを、受容する。

・・・様々な修験道がある中、これは羽黒修験独特の言葉だ。

・・・そんな哲学が息づく羽黒修験を体験・体感するための2日間を、今回過ごしてきた。

はじめての宿坊体験

今回お世話になった宿坊は、出羽三山羽黒山宿坊「大聖坊(だいしょうぼう)」。
そして今回の修行の先達こそが、この大聖坊の13代目である、星野文紘 さん。

星野さんと言えば、講演活動のほか著書も出され、また各地の修験の山でも山伏修行を実施されるなど
全国を駆け回る活動をされている、有名なお方。

著書:
○ 感じるままに生きなさい ―山伏の流儀 (Amazonリンク)
○ 答えは自分の感じた中にある 清々しく生きるための山伏のヒント(Amazonリンク)

今回はその先達の下で修行体験ができる、願ってもない機会となった。

宿坊にて白装束を身に着け、また羽黒修験独特のものである”宝冠”を頭に纏う。

そして、この2日間の行動は、食事(壇張・だんばり)も含め、あらゆることが ”行” になる。

修行中の私語は、一切禁止。
みな同じ修行に帯同しているようでありながら、それぞれが”自分の中の何か”と向きあっていくためだ。

そして、携帯電話等の いわゆる”文明の利器”と触れ合うことも、勿論一切禁止。

そんな2日間を、それぞれに。

そして、共に。

過ごしていく。

山岳抖擻(とそう)で感じた「からだの声」

羽黒山での山岳抖擻(とそう)。

・・・自分と向き合いながら、それぞれが共に 一歩一歩、2,446段の石段を進んでいく。
一人ひとりが、ただ、自分と向き合う。

このところの雨もあって、石段は滑りやすい状態。
石段に金剛杖をつく音と共に、足を滑らせ、時には転ぶ音も聴こえてくる。

そんななか自分は、ほぼそのようなことも無いまま、その石段を上り続けた。

そしてそれは不思議と、「からだ」がその答えを知っているかのように、一歩一歩を刻んでいるようだった。

からだの、賢さ。からだの、喜び。

石段が好きになるきっかけとなった、「こんぴらさん」の石段。
独特の幽玄さが包む、室生寺や山寺の石段。
駿河湾を望みつつ登った、久能山東照宮の石段。
その勾配とゴツゴツした自然石に圧倒された、神倉神社の石段。
昇龍の如くそびえる熊本の3,333段「御坂遊歩道日本一石段」・・・

・・・これまでの体験によって刻まれた「からだ」の感覚が、無意識に「次の一歩」を導いているかのような、不思議な感覚だった。

そして自分は、その賢い「からだ」に、委ねるだけ。

そしてその「からだ」は、疲れを知ることもなく、ただ・・・

喜んでいた。

・・・私語禁止と言われたけれど、むしろ

言葉なんか、要らないなぁ・・・

そんな喜びに包まれた抖擻だった。
 
 

「自分の祈りの声」と ”つながる”

拝詞、般若心経、真言・・・行中において様々なかたちで捧げる、祈り。

できうる限りの その「祈り」は、この度の豪雨や大阪の地震、これまでの大震災その他の災害へ向けた祈り・・・そして災害なき安穏への祈り。
戦争なき世界、平和への祈り。
・・・様々なことに捧げられた、祈りだった。

最初は「早く拝詞を覚えないと」とか「うまく声を出さないと」と思っていた。
そして・・・却ってその声は、霞んでいった。

でも、次第にその「祈り」のみに心を傾けるようになってきた時・・・
その声は自然に、深く響くようになっていった。

今振り返れば、あれは「自分の声」と、そして「祈りそのもの」と・・・一つになることで感得したもの。
決してテクニックではないのだ、と思う。

深い深い、時間だった。

「うけたもうことのちから」を、思い知る

夜の抖擻。

都会のそれとは正反対の、明かりのない道をゆく。

静けさと、自然の匂い。
・・・そんな中で際立つ、あるものがあった。

それは

自分の「考えの声」。

「早く目が慣れてこないかな」、とか。
「あぁ、家の明かりだ。車のライトだ。修行の妨げじゃん」、とか。

・・・ゴニョゴニョと、自分の「考えの声」。

こんなにも、自分は・・・
”考え” を、いつも回し続けているのか・・・と、唖然とした。

感じることを大切にする為に、修行に来たのに。
「感じることに専念したいのに・・・考えの声、うるさいなぁ。」

と、心の声がしたその時、ふと気づいた。

今の自分は「感じること」が ”良いこと” で「考えること」が ”悪いこと” 、という思いに 執着してしまっている。
だから、「考えること」を「悪いもの...うるさい」、と、感じてしまうんだ。

今の「考えることをやめられない自分」こそが、イマココの自分なのに。
それこそが、良いも悪いもない、”ただそうあるだけ” の自分なのに。

・・・だったら今、”ただそうあるだけ” の自分に、戻ろう。

そう思い、あの言葉を心に念じた・・・

うけたもう。

イマココの、あるがままを、そのまま受け入れる。

うけたもう。

その瞬間・・・
「考えの声」の、うるささが・・・スーッと・・・消えた。

・・・「うけたもう」の力を知った、瞬間だった。

そしてその後のことは、あまり覚えていない。
ただ何となく、清々しかった気がする。

あの後はただ、夜の暗さと、前を歩く装束の白さ、時折通りすがるホタルの光、そして先達の鈴の音に導かれ。
・・・それらとただ一つになり、歩いたのだと思う。

そしてあの時は、考えの声が「止まった」のではなく・・・
ただ”それ”を受け入れ、1つになったことで「うるさくなくなった」のだ、と思う。
 
 
「うけたもう」が持つ ”深い受容の力” を思い知った、夜の抖擻だった。
 

滝行に学ぶ、「委ねること」の奥深さ

しとしとと降る雨のもと、分厚い雪氷を登って、滝の下へ。
氷や川の流れに足を取られながら、自然を前にした人間の無力さを、しみじみと覚えていく。

そしてたどり着いた滝は、いわゆる高いところから落ちるものではなく。
滝壺の後ろ、斜め上から力強く押し出すような滝。

先達の指導に従い準備体操をし、滝に・・・

挑んだ。

自分の体は、あっけなく・・・前に押し出された。
雪解けの冷たい水に、一瞬にして呼吸ができなくなり、拍動が早くなり。
滝壺の深さに足がつかない。

もう一度・・・

挑む。

やはり同じことの、繰り返し。

体の感覚はなくなり、それは痺れと激痛に・・・変わった。

なす術もない、無力感。
そして負けた感じになったまま、トボトボと来た道を降りた。

なぜ、こんな滝行になってしまったのか・・・
それは、その後の先達の言葉で解ることだった。

要するに自分は、滝に

挑んでしまっていた、のである。

滝を、「挑む対象」にしてしまっていた。

戦う対象に、してしまっていた。

だから「押し出されたこと」が「負け」に、なった。
「足がつかない深さ」が「無力感」に、なった。

しかし、もしあのとき、あの滝を「ただそうあるだけのもの」にできていたら。

そのあるがままを「うけたもう」ことが、できたなら。

・・・もう少し違う行にすることが、できたかもしれない。

でも、あの自分こそが、あの時のあるがままの自分。

今はただそれを・・・「うけたもう」のみ、である。

あなたは ”それ” を、勝手に ”何かのための対象” に、してはいないか。

自分の、アタマで。
・・・ただそうあるだけの ”それ” を、勝手に ”何かのための対象” に、してはいないか。

・・・それがあの滝行、あの自然から頂いた、自分にとってのメッセージだった。

ただあるがままを、うけたもう道。まだまだ奥が深い・・・

生まれ変わりの儀で「無意識」そして「からだ」と ”つながる”

山に ”還り” 、そして戻ることで ”生まれ変わる” という、修験の道。

山を女体(=母胎)と捉え信仰するのは、そのためだ。

人は山に入り、自然の力を頂き、感じるままに過ごし戻ってくることで
まるでその「いのち」が再生したかの如き ”清々しさ” を感じることができる生き物なのだろう。

そんなこの2日間における最後の行として、火渡りによる”生まれ変わりの儀”が行われた。

ひとりづつ、立ち上がる火に向かって駆け、「おぎゃあ!」と産声を上げながら、飛び越えていく。

そして自分の番で、”それ” は起きた。

なんでそのようになったのか、まったく記憶が無いのだが・・・

ほどほどの助走で火に近づいていったはずの自分は、気づけば・・・

・・・全力で駆け、大ジャンプ、そして・・・

それはそれは豪快に、大転倒した。

手に持っていた金剛杖が足に当たったのもあるが、気づけば全力で跳び上がっていたのだ。

それは完全に「無意識」が「からだ」に指示し、勝手にやったことだった。

でもこれが、この2日間の修行の中で最も「自分に還り」・・・「無意識」と、そして「からだ」と ”つながった” 瞬間だった。

だから、皆さんの前でひとり、最後の最後に泥まみれになって地面を這い、血のついた手のひらを見た無様な自分が・・・

とっても、清々しかった。

そして、気づいた。

・・・そうだったんだ。
「生まれる」というのは、これほどまでに必死で、全力で・・・
そして、その瞬間というのは決してキレイなものでもなく、ある意味では不格好なのだ。

しかし、だからこそ・・・

美しく、愛おしい。

2日間の修行で、ようやく行き着いた・・・自分なりの「ただ感じる瞬間」、だった。
 
 
 

「考える知性」から「感じる知性」に還る・・・そのためのカギは ”二元を超える力”

修行を無事滞りなく終え、その状態を解き、話をきいてみると。
意外というか、やはりというか・・・僧職やセラピストなどの対人支援者や、ボディワーカーの方の割合が多いように感じた。
やはりそういう方たちというのは「心や魂、いのちに還る」ことの必要を感じるものなのだろう、とあらためて思う。

そんな修行後は、全員で美味しい精進料理を頂きながら、自己紹介がてら修行の感想をシェア。
みなさんそれぞれの背景、それぞれのストーリーをもってこの修業に臨み、その「感じたこと」も人それぞれだった。

そして、それを聴き届けた先達から、一言。
「ほぉら、みんな。・・・そうやって ”ただ感じるということ” を、常に言葉巧みに描写しているねぇ・・・

アタマを使って(笑)。」

「もう、仕事などでの癖なんだろうねぇ、そうやって教えられてきたし(笑)」。

「正直な”ただ感じる”状態ってのは、その場ですぐ忘れちゃうぐらいのものなんじゃないかねぇ」

見事な指摘に、一同 思わず笑った。

でも、そんな指摘の中に流れている、先達の「心のあり方」を感じた。
つまりは、先達の”大きさ”や”優しさ”、”清らかさ” といったものだ。

それは言うなれば・・・
「まぁ、それはそれで”うけたもう自分”だよね」、という”あり方”なのだと感じた。

先達はきっと、その存在そのものがもう ”純然たる うけたもうエネルギー体” なのだ。

だから修行参加者のように、わざわざ ”うけたもう!” と宣言するまでもなく
常にすべてをそのとおり、”うけたもうまま”にしているのだと思う。

そして、そんな先達が最近大切にしていることは、もしかしたら「うけたもう」の更に深いところにあるものかもしれない。

それは

「ゆだねる」

例えば、あの誰もが様々な思いで苦闘した滝行。

あれも、先達からすれば。
既述のように「戦う」のではなく、ただ「ゆだね、自然とひとつになる」こと。
・・・それが、深い境地であるようだ。

「冷たい」「痛い」「もう出たい」・・・それはすべて、アタマで判断していること。
ただ「ゆだね、自然とひとつになる」とき、それは消えていく・・・そんな境地があるようなのだ。

「でも、まずは頑張って頑張って・・・そうやってまた何か見えてくれば、いいんじゃないかなぁ。」

「それに、これもまぁ、あくまで俺の思うところなだけで」
「この修業であなたが感じたものが、今のあなたの ”本当の答え” なんだよ」と、先達。
先達の眼差しは常に暖かく、優しい。

そしてその言葉のひとつひとつが素朴な響きで、まっすぐで、気持ちがいい。

「考える知性」から「感じる知性」へ。

ヒトは生まれた瞬間、”感じる力” が、完成されている。

先達はそれを「感じる知性」と呼ぶ・・・なんて素敵な言葉だろう。

しかし、時間がたち成長するにつれ、それを「考える知性」、つまりアタマの知識、価値観などでどんどん覆い隠し・・・

「感じる知性」が自分の中にありつつも、どんどん「アタマの層」によって奥へ奥へと追いやられ、忘れ去られてしまう。

幾重にも重なった観念が、現実をあるがままに ”感じる知性” を、妨げてしまうのだ。

だからこそ、これを取り戻す力こそが

うけたもうちから。

”うけたもうちから” は、現実をただあるがままに受け入れる力だ。

良いも悪いも、ない。
正しいも間違いも、ない。
できるもできないも、ない。

”うけたもうちから”には、そんな「二元を超える力」がある。

だからこそ、そんな「うけたもうちから」によって
一歩一歩「考える知性」が引き剥がされ、自らの核にある「感じる知性」を取り戻していくことができる。

「ただそうあるだけ」という”それ” をそのまま受容し、そこから自分の”感じる知性”を、ただ感じるままにすることができるのだ。

「うけたもう、ちから」。
それは「ザ・ワーク」の著者であるバイロン・ケイティの言い回しを借りるならば
「現実をただ”そうあるだけのもの”として、そこに異を唱えないこと」にも通じていると思う。

だから、あの滝の勢いも、人を押し負かすためのものではなく、ただそうあるだけ。
滝壺の深さも、人を”足のつかない不安”に陥れるものではなく、ただそうあるだけ。

すべてはただ、そうあるだけだったのだ。

「考える知性」から「感じる知性」へ、還る。
その重要性に今、人は少しずつ、気づき始めているのだと思う。

そのカギとなる「うけたもう」を体感・体験した、2日間だった。
 
 
「この修業であなたが感じたものこそが、今のあなたの ”本当の答え” なんだよ。それを大切にすればいい。」 

先達の魂の力に最後まで包まれた2日間が、こうして終わった。
 
 
あなたの世界、あなたのすべては、ただ「うけたもう」中にある。
それぞれが、良いも悪いもない、あるがままの「あなただけの答え」を、持っている。
 

それを”感じる知性に、還る”ことが、「あるがままの自分を生きる」ことへ、つながっていくのだと思う。

修行の旅を終えて

帰途につき、静かに思いを馳せていると。
あの先達の法螺貝の音が、驚くほど鮮明且つ立体的に、心に響いた。
あの数々の「祈りのうた」が、こだました。

とても暖かい気持ちになって、嬉しかった。
 
 
 
今回の修行をお導きくださった先達はじめ皆々様。
そして、共に参加するという貴重なご縁のあった皆様。

自分を迎え入れてくれた自然、そして、大いなるもの。

その全てに・・・感謝。

ありがとうございました。
  
 

・・・あぁ、こうして ”感じたこと” を、詳細に言語化してる時点でもう、”アタマ使いすぎ” だって言われちゃうんだろうなぁ(笑)。
でもこれが今の自分・・・
 
 
うけたもう!! 
 
 
 
おしまい。 

 
 

※後記:本記事を書くにあたって考えたこと ~修験道と情報発信について~

修験道は古来、密教の影響もあってか、修験者はその体験し感得したことを口外するのは慎むべし、とされていたようだ。
そしてそれはおそらく指導する側においても修行の内容・方法を口伝等の手段で伝えられてきたのだろう。

そのため、今回感じたことやその内容を記事として書き、発信してもいいのか、体験前には少し迷いもあった。

でも、実際に体験してみて、その心配はやめようと思い至った。

なぜなら、修行を体験して「感じ取った、自分にとって本当の答え」というのは、結局自分の中にしか無いから。
きっと自分の中には、言葉にならない ”何か” が、ちゃんと自分の無意識の中にも刻まれていると思うのだ。

だから、たとえこうして言葉にしてみたところで、それはすでに「考えのフィルターを通して変化した別モノ」なのだと思う。

それに。
こうして発信されたくらいで、修験のあり方が揺らぐなんてことは、無いはず。

何より修行の導く答えは、やはり「その人が”直に体験”し、その時のその人が感じた ”瞬間瞬間” 」の中にしか、ないのだと思う。

そしてそれこそが、その人にとっての ”本当のこと” なのだ、と思う。
 
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