そんな表現が、あったか。

よっちゃんです。
 
先日は定期的な問診の日。
 
メンタルのドクターのところへ。
 
身体のコンディションのことや、気持ちの在り方の変化を話しに行く。
  
「ダメになるぞ」と言われて信じてきたものへの、怒り。
それを信じた結果、ダメになったことへの、怒り。
行き場のない怒り。
 
このドクターには、その都度の感情を全て話している。

怒っているなら、それを感じればいい。それ自体悪い事でも何でもない。

当たり前だけど、それができていなかった自分には、有り難い言葉。
 
誰かに感情を話し、受容的に聞いてもらい、助言をもらう。
このプロセスだけで、随分怒りが軽くなるから不思議。
「出す」って大事。
 
感情のお漏らし、大事。
 
そして。
 
その手助けとなっている、今受講している講座のことも話している。
その講座を通じて、以前よりもずっと、自分の感じている感情に蓋をせず
感じ取れるようになったこと。
そのなかで、まだまだ怒りの感情が未処理であることに気づいたこと。

怒りを溜め込む「どうせわかってもらえない」の正体

溜め込んだ怒りの背後にあるのは。
 
「どうせわかってもらえない」という気持ち・・・
 
の裏にある

 
「わかってもらいたい!」  
だぁね。
 
「俺がそうなのだから、みんながそうなのだから、お前もそうあらねばならぬ。
そしてそう思えないお前はダメなのだ。」
...この ”べきねばミサイル” そのものへの違和感。
それを無理やり受け入れようとしている「自分への違和感」。
 
自分は「”みんな同じであるべき” コミュニティ」はシックリこない。
「人それぞれの違いを受容し、出し合って生きていけるコミュニティ」に行きたい人間。
 
このことを

”みんな同じであるべき” コミュニティの人に「”わかってもらいたい” という戦い」を、挑み続けていた。

ここまでわかると、腑に落ちてくる。
 
もう両者は「他者を受け入れるための前提そのもの」が、もう真逆なのだ。
 
「お互いの違いそのものを受け入れること」をもって他者受容とする人。
「お互いの違いがなくなること」をもって他者受容とする人。
 
真逆。
 
だから、「分かってもらう戦い」そのものが不毛にして、ただ消耗疲弊するだけ。
 

わかって貰えなくても、仕方ないんですよ。”世代” が違うんだから。

ドクターはいつも、そんな言い方をする。 

社会背景が、違う。
そこで培われた価値観が、違う。
その価値観をその都度取捨選択していく変化のスピードが、違う。
そこから伝えていきたい価値観の種類が、違う。
 
同じ時代を過ごしながらにして、何もかもが違うのだ。
 
それを、自分が受けている講座では

「人間のバージョンがもう、違っている」という言い方でした。

・・・ドクターに、そう話した。
 
「おぉ、その言い方はなんかイイですね、新しい感じ!」
 
そう言って笑うドクターはむしろ、”みんな同じであらねば” 世代の人。
 
でも ”前世代バージョン” からのアップデートを行い、”心の世代”に寄り添って、生きている。

上下優劣の話、ではなくて。

シックリくる世界観が違う。
 
ただ、「違う」。
 
そこに善悪、上下、優劣は、ない。
 
そして今や、その世界観が違う各々でコミュニティ形成をし
その中で生きていけるようにも、なってきた。
 
そういえば、インターネットやSNSを駆使するようになった人間は
それにより今までにない脳領域を使うようになっていると聞いたことがある。
そしてもはや「ネット世界=バーチャル」という考え方も、古いバージョンなのかもしれない。
 
このことだけ取ってみても、「人間のバージョン」というのは随分変化しているのかもしれない。
 
...ともかくそうやって、世界観の違う人同士でコミュニティを作り
同じ時代を生きながら、世界観の違いで住み分ける世界になってきている...
 
んだけど。
 
時に

「みんな同じであるべきコミュニティ」から「違いを認め合うコミュニティ」に向けてミサイルが降ってくる(笑)。

そうだよなぁ。
 
みんな同じであらねばならないのに、そうでない世界観があるなんて「あってはならない」んだもの。
そんな世界がある事自体「何?挑発?」って受け取られちゃってるのかもしれないし。
 
...これが、日常だと「親子ゲンカ」とか「モラハラ・パワハラ」とか「炎上」の状態なんだろうなぁ。
 
この「お前も同じであらねばミサイル」の対策は、せいぜい2つ。
 
① 説明を求められたら、最善は尽くす。 ・・・ただ、自分の最善にのみフォーカスする。それ以上の「分かってもらえなければ、という戦い」に入らない。
だってそれは、「同じ理解を示せ!」という彼らの土俵に入る事だから。
 
②こちらから迎撃しない。 「こちらの世界観の方が成熟してるのに」という驕りや「分かってもらえなくて結構!」という反抗も、しない。
 
ただ「違う」というだけ。
ただそれが「仕方ない」というだけ。
 
それ以上の事態に持ち込むと、どんどんややこしくなるのだ。
 
とにかく、相手と噛み合わないときは。
 
「自分の説明が足りなかったのでは、説明能力がないのでは」と自分を責めない。
それ以上の「わかってもらうための戦い」に嵌らない。
認知の世界観、前提、バージョンが違うだけなのだから。
 
あとは、相互理解を「要する部分」を限定し、的を絞るしかない。
「扶養関係として」とか、「取引関係として」とか、「雇用関係として」とか。
 

...要は、ここまで考え込んでしまうほどに。

「人としてのバージョンが違う」ことで起きる食い違いは、大きいのだと思う。
そこを理解しないで嵌る軋轢は、大きいのだと思う。
 
...今日の記事はこの辺にしとこうかな、オチも無いな...
 
あぁ、そういえば、ドクターが最後に
「...で、その講座は過去にのみフォーカスするの?
例えば、その怒りを溜め込んだ ”相手を殴りに行きましょう”、なんて教えたりとか(笑)」
 
こちらも笑いながら「いや、あくまで ”未来に向かうための” 今の感情整理に過ぎませんから」
 
「ですよね、なら良いですね(笑)」
 
二人して笑った。
 
冗談っぽく言いつつも、「あくまで未来に向かうために学んで下さいね」というメッセージ。
 
人間味と深みのあるドクターに出会えてよかったなぁ。
 
 
おしまい。
 

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