「2月の振り返り」と、今の素直な情況を書いてみる

3月になった。

個人的に先月は、重みのある内的プロセスが連なるように起きてしまい、久々に「気持ち的なしんどさ」から脱出できずに過ごしました。

その中での、一番の気づき。
それは、自分の「素直な思い」を「ただ素直に話してみる」ということを ”随分と遠慮してきてしまった”、ということ。

無意識の、内に。

そしてその ”小さな遠慮” の積み重ねが、人生を必要以上にややこしくする ”大きな蓋” となりうるのだということも、今ようやく、深く実感しつつある。

「イヤだ!」「できない!」と、素直に言う。
「ねぇ、聴いてよ!」と、遠慮せずに言う。
「わからない!」「助けて!」と、遠慮せずに言う。
 

言うだけで、よかったのに。きっと聴いて貰えたのに。 
 
...たったそれだけのことが、自分の中でハードルが高くなっていること自体を
全く気づけずに過ごしてきたことが、ようやくわかるようになった。

「理解」を超えた、「実感」として

そして、それを遠慮することで「お上手人生」「お利口さん人生」をやることが正しいのだ、と思い込んできたことにも、ようやく気づいた。

でも、その人生システムは、今頃になって制度疲労を起こし、行き詰まってしまった。

・・・できることなら、その「お上手人生」「お利口さん人生」を、問題なくやり遂げたかったのに。
今あらためて、それがとても残念で、悲しい・・・でも仕方ない。
 
 
 
自分の「素直な思い」を「ただ素直に話してみる」ということを ”随分と遠慮してきてしまった”、ということ。

そのことに対して、こんなにも残念で、こんなにも悲しい思いを残したまま、過ごしてきてしまったこと。
・・・それを今、「心の底から」、というより「体全体」でもって、その感情を まさに”体感”している
 
 
そんな今こそ「心の学び」を使って、「そんな自我を俯瞰するようにする」とか「感情から距離をとり、同一化しない」ということをすればいいのかもしれない。
実際僕は、そういう「自己観照」とか「脱同一化」という考え方が好きだ。

でも今こそ、自分に素直に、こう言いたい。

「僕は今、それができません。」

今はこの、なんともやり場のない悲しみを、ちゃんと感じてみよう。

遠慮せず、感じてみよう。

それが、今までできなかったこと、やり残してきたことなのだから。

それでもこの感情が長引いてしまうようなら、誰かに「助けて!」って、ちゃんと言おう。
 
 
 
日々の”小さな遠慮”に気づき、緩めて、素直な自分で過ごすこと。
・・・それはきっと、「健全に自己一致した、持続可能な人生」のために、大切なことなのだと思う。

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