相反と、共存。

高千穂のあとは別府、湯布院を回った後、一転引き返すように、大阪・京都へ。
 
京都のあとは、いよいよ高野山。
 
特に、奥の院はというと。
 
空海さんが今も、すべての人が救われるまで ”生きて祈り続けている” 、神聖な場所。
 
そしてその参道は、名だたる戦国武将をはじめとした御廟の数々。
 
まるで異世界のようだった。
 
その異世界で、生ける者が垣間見る、死者の世界。
 

と同時に。

こうして延々と両側から死者に見られているような、不思議な感覚になり
 
突然言葉が降りてきた。
 
「結局誰しもいずれ、こうなる。」
 
どんなに生前に名を上げても、行きつくところは、同じ。
 
そして、その名を上げるために、戦国武将であれば
 
「人々の幸せのために、人々を殺す」という、矛盾に満ちた世界。
 
そしてその矛盾に行き、殺生してきた人間が、最後にこうして
 
仏さまをよりどころとしている、という矛盾。
 
矛盾と、苦悩に満ち。
最後はその救いを求める。ある意味、何でもありなのか。
 
そして、はたと自分なりに気づいたこと。

そうか。悩み苦しみあっての、神仏。

人間が悩み苦しむからこそ、そこに光を当てんとする神仏が
その輝きを増す。
 
そういうことではないのか。
 
この世の人々が全員、聖人君子のごとく、清廉潔白で悟りを得たようになってしまったら
その時点で、神さまも仏さまも、もう要らんのだ。
 
闇あっての、光。
 
相反する要素があってこそ、自身を形作ることができる。
 
だったら自分も。
神さま仏さまがその本領を発揮できるように。
 
もっと矛盾にや煩悩に満ち溢れちゃって、悩み苦しみも悪い事にしないで。
自分も他人もジャッジするなんて聖人ぶったことしないで。
 
もっと人間臭く、ちっぽけに、生きよう。
 
そんなことを思えるようになった。
 
そんな心持ちで着いた奥の院。
もう頭をカラッポにして、ただただ暖かな燈籠の光を浴びた。
 
そして、そのお堂の裏に進み。
今も祈りをささげている御大師様に、ご挨拶。
 
そして、往来するほかの参拝者と一緒に、般若心経を、心行くまで詠唱した。
 
そういえば、自分が心身強制終了を迎える前、半ばパニックになり始めていた心を何とか整えようとして
いつの間にか暗誦できるようになってしまっていたのが、般若心経だった。
 
こうして今、役に立ってよかった。
 
  
南無大師遍照金剛。

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