まさかの、自己定義。

前回の記事の、続きです。

前回の記事:【2月の回顧録①】「燃え尽きストーリー」、再接近の ”兆し”? 

無料モニターカウンセリングセッションを30本取り組んだ後に感じていた、過去の ”燃え尽き直前” に似た感覚の、探究。

折しもそんな感覚の中で、LPL養成講座を主宰する岡部明美さん(あけみちゃん)によるセッションのスーパービジョン会(練習会)があったため
僕はそこで、今回の件を主訴としてクライアントをお願いし、探究を進めることができた。
そのセッション練習会は、主訴テーマの ”見立て力” を主眼とした会であったため、続きは別の機会でやってもらうことに。
・・・その”続き”は、同席していたLPL認定セラピストの辻元晶子さんにお願いすることになったのだった。

辻元晶子さんのHPはこちら:癒しを超えて豊かな未来創造へ

セッションの日を目前に、大きな気付きが”降りる”

辻元さんによるセッションの日まで、引き続き ”この感覚” について気にかけていたときのこと・・・

突然の気付きが、降りた。

「私とは」という自己定義。・・・概念との”同一化”

突然の、気付き。

・・・それは。
「私とは」、という「根本的な自己イメージ」とか「パーソナリティ」とでも呼ぶべきものであろう。
 
 

僕は一体・・・「自分」イコール「何」だと、思い込んできたのか。
 
 
それは・・・

「私」とは、「提供できるもの」である。

「私」=「提供できるもの」。

提供する”主体”ではなく、提供できるもの、その”客体”の方を「私」だと思いこんで生きてきている・・・

「提供できるもの」、という概念との「自己同一化」が、自分の感覚の根っことして存在していることに、気づいたのだ。
 
 
私=提供できる「モノ」。

「提供できるモノ」が消える = 私が消える、という感覚。
 

そしてそのソワソワした感覚は、過去に遡る。
・・・ 「提供できるものがないと、この家族に参画できない」という感覚。
「”いるだけでいい” なんて不十分で、許されない」という感覚。

助けになること、役立つこと=「価値」である。

・・・これはつまり・・・

「私とは・・・”Doing” である。」

”人間とは、意識そのものだ。存在そのものだ。
 
Beingそのものだ。”
 

・・・そんな学びを、ずっとしてきたのに。

その学びの師であるあけみちゃんのブログ、そのタイトルは POWER OF ”BEING”だというのに・・・

僕が同一化してきた「自己定義」は・・・

”Doing” だった。 

思わず「そんなぁ・・・」と声を上げてしまった。

視野の上から”黒いカーテン”が降り、血の気が引いた。

それと共に、鼻の中が血生臭くなったのを感じる・・・ 
すると、本当に左の鼻から血が少し垂れた・・・驚いた。

あらゆることが”腑に落ちる”

まだまだ気づきは続いた。

「自分がこれまでクライアントとして取り組んでいた主訴はどれも、”この自己定義との同一化”に、全て端を発している・・・」
・・・まさかまさか、こんなところに集約されているとは・・・

でも、間違いない。
 

そして僕が”できたことへの評価を受け取る”ことが苦手な理由も、これでわかった。

僕は、Doingだ。

「できたこと=Did」はすでに・・・排泄物なのだ。

だから、褒められても受け取る人が不在なのだ。
そんなことより「できてないことリスト」に生存の危機を感じ、それを夢中で貪らんとする、Doingなのだ。
僕はDo”ing”だから、休息していても、どこかでソワソワしているのだ。

「私とは、Doingである。」
「できたこと」を積み上げず排泄し、「できる」を得るために「できてないこと」を探し求め貪るバケモノに、取り憑かれてきたのだ。
 
 
 
「燃え尽き」へ再接近しそうな体感覚と、そこから発した探究。
その中で気づいてしまった、根深い「私とは、という自己定義」。

・・・そのいきさつを主訴として、辻元さんのセッションに臨むことになった。
 
 
続く。
 
 
 
 

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