第2講にして、”自己の最重要拠点”の学び。

先月より学び始めた、LPL(ラヴィング プレゼンス リーダーシップ)養成講座。
カウンセラー&セラピストのほか、作家として著書も出されている岡部明美さん(あけみちゃん)のライフワークともいうべき長期講座だ。
カウンセラーやセラピストを志す人は勿論のこと、「やり方=Doing」だけではどうにもならない人生の分岐点に立ち 自己探求したい人や、カウンセリングマインドを持った”カウンセリングパーソン” として社員や自分と向き合いたい経営者なども集う。
岡部明美 プロフィール
岡部明美公式ブログ:POWER OF BEING

「第1チャクラ」と「体感覚」

LPLの学びは、「チャクラ」という概念を基軸に、自分を整え、自分に還るための学びを行う。

チャクラとは、体のエネルギーセンターに関する東洋の概念。
人間には体の中心、背骨の基底部から頭頂部にかけて7つのエネルギーセンターであるチャクラがあり、そこから外界とのエネルギー交換を行っている、というような考え方だ。
そして各チャクラには、その内包する「成長のテーマ」があり、第1チャクラはまさに「自分のはじまり」に関するテーマをもつ。

つまりは、胎児も含めた「自分が存在し始めた瞬間~幼少期」に関する成長テーマだ。

家族や集団、共同体の中で生きていくための、根本的なBeing のテーマ。

それは、一言で言えば

「無条件の愛」に根ざした「自己への根源的な安心感」。

私はこの世界に生まれてきて、OKだった。

私はこの世界に、いてもいい。

私は無条件に、この世界に、祝福されている。

・・・そんな自己存在における「出発点」のエネルギーだ。

第1チャクラの原点は、やはり・・・”親子”

そんな世界観のなかに生きるための最重要課題は、やはり・・・

親子との関係。 

親子関係の傷・・・第1チャクラの傷。
それは、ごく単純なことで起きる・・・そりゃそうだ。
子どもなのだから、何気ないことで 簡単に傷つくのだ。

例えば ”上の子” が受けた「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから」、という親からのストローク。

上の子になったばかりに「してもらいたかった」ことを「してほしい」といってはいけなくなる。

いつしか、あきらめる。

傷になる。

傷を「なかったこと」にして・・・自分でできるようになる。

そんな「インナーチャイルド」が癒えないまま「偽りの自立」を果たす。

そんな傷が「愛された自分」に対する疑問を投げかけ、蓄積されているのだ。

そして大人になっても知らず知らず人は、そんな傷を再現するストーリーを生き続ける。

「愛された記憶」を辿るべきは、無意識下の「体感覚」

人は大人になれば、いくらでも「愛された、やってもらった事実」を振り返り、自己説得をすることができる。

「ここまで育ててもらったんだから、愛されていないわけがない。」
・・・考えればわかるのだ。

アタマで

でも、そこじゃない。

「自分は愛されていたはず」なのになぜか行き辛いのだとしたら・・・

そこじゃないのだ。

「愛された記憶」を辿るところは、アタマじゃない。

体感覚、なのだ。

結局のところ、この世界で生まれたことへの無条件の安心感をもたらすものは

”抱きしめられることの温かさ”に、帰着する。
そこには理屈を越えた「自己の受容」「存在への祝福」といった力があるのだと思う。

今回はそんな”体感覚”を思い出すためのワークをいくつも行った。

例えば、相手の背中から「心音=存在の音」を”聴く”、または交代で”聴いてもらう”ペアワーク。
その時の”相手”を”親”だと思ったときに、自分にどんな感情が湧くか、探求する。

もしくは、相手に”親”になってもらう。
そして自分は目を閉じて、”親”にボディコンタクトを取ってもらい、自分に何が起きるか観察するペアワーク。

懐かしい感じがする反応。拒否や抵抗が起きる反応。
その反応は、どんなに自分で事前想定しようが、それを軽く超える。そしてその反応も様々だ。

自分はこのボディワークに対しては、非常にフラットに受け入れられる感情だった。

でも、自分にとっての「第1チャクラの傷」について学ぶうち、あらためて実感することがあった。

自分の傷は、父とか母といった”人間単体”に対してものではない。
以前書いた大塚あやこさんによるセッション記事の通り、自分にとっての傷は・・・

「家族”全体の在りよう”」に対するものだ。

40半ばで倒れ、認知症等で要介護状態になった祖父。
そんな「祖父=夫を献身的に支える一家の主」をやらねばならなかった、祖母。
・・・「という自身の世間体を守りたい」祖母から、”そうある為の全て”を丸投げされてしまった、父と母。
我が家の従業員から婿養子となった、父。
そんな「私の娘と結婚した”元従業員”」という祖母からの抑圧を抱えた、父。
仕事と介護、その他のこと・・・本当の大黒柱であるはずの、父。
そんな両親と夫との関係に挟まれた、実の娘である母。
そこに距離をとっていた、姉。

家族全体に渦巻く抑圧感覚、緊張感。
そしてそれに根ざした「得体の知れなさ」が、自分の傷。

そんな不安定さ、緊張感からくる父からのジャッジメントや母からの過干渉にも確かに傷ついたけれど
自分にとって最も深い傷となっていたのは、もっと全体を渦巻く「得体の知れない ”現実そのもの” の、”どうにもできなさ”」だった。

絶対に勝てない ”現実” と戦い続けてしまった、これまで

今回の課題図書にもなっていたバイロン・ケイティ著「ザ・ワーク 人生を変える4つの質問」
そこには ”現実” というものに対する、このようなことが書いてある。
「私達は、ただあるがままの現実に勝つことは絶対にできない」
「現実というものは、あなたの意見や選択や許可を待ってくれない。そしてそれは、”ただそうある”だけだ」
「私たちが苦しむのは、ある考えを信じて、現実に対し異を唱えるときである」

日常では例えば・・・
電車の中で化粧をしている人がいる時。
そこにはただ、あなたの意見や選択や許可を待つことのない「あの人が化粧をしている」という”現実”が、ただあるだけである。
しかし、こちら側に「電車の中で化粧をするなんてことはあってはならない、みっともないことだ」という観念によって「現実に異を唱える」ことで、ストレスになる。

人を苦しめるのは、あるがままの現実ではなく、それに異を唱えるストーリーを持ってしまったときなのだ。

現実に異を唱えるための「解釈と同一化し、解釈の住人になっているとき」、人は苦しむ。

そして自分もまた、家族の在りようを通して、世界に・・・現実そのものに対して、ある戦いを挑み続けてしまっていた事が、ようやくわかった。

”現実” というものは、”訳のわかるもの” であるべきだ。

この思い込みを ”生まれた瞬間” にもってしまったがゆえに、不安と恐れをもった。
この ”家族の在りよう” が何なのか ”解る瞬間” を求めたけれど、求めるほどに、混乱した。
正解を外の世界に求めることが、いつしか他人軸人生を歩ませた。

この繰り返しによって、現実に負け続けた。

それもそうだ。

現実の本質とは「わからなさ」そのものにあるのだから。

「わからなさ」という ”現実の本質” を越えようとする戦いは、絶対に勝てないのだ。

そして絶対に、苦しむ。

しかし、今回の学びを通して、その「現実の本質」を超越し、現実と仲良く生きていくためのエッセンスの存在に気づいた。

それは・・・

安全。安心。あたたかい・・・

愛。

愛こそが、現実を超え、現実を取り戻す、唯一のカギなのだ。
それがわかる、ケイティ自らのセッション動画を見た。

その動画は、たった10分少々の中で、クライアントに凄まじい変容が起きる瞬間があった。
それは、クライアントが「自分の中に愛があった事に気づき、取り戻す瞬間」だ。

そして人は。

自分の中に愛があった事に気づき、取り戻した瞬間に、人は・・・現実を取り戻し、現実と一つになる。 

人は自分の中に愛があることを忘れてしまった瞬間に、現実から離れ、苦しみが始まるのだ。

自分の中に愛があることに、責任を持つこと。

自分の中にある愛を、放さないこと。
これこそが、世界から唯一課された人間の責務なのかもしれない。

そのために、今の自分に対して必要な声掛けは、こんなものだと思う。
「わけのわからなさに、焦らなくてもいい。」
「わからないままで、いてもいい。」
 

・・・そんな自分への声かけが、今の自分にも必要だと実感した。
自分を愛し、それをもって他者を愛し、世界を愛するために。

それこそが、自分を含めた「人それぞれの現実、真実」を、ありのままに愛することへつながるのだと思う。

そしてその「わからなさ」という ”現実の本質” を愛し、一つになったとき・・・
その「わからなさ」が自分にもたらしてくれた「問うチカラ」こそが・・・これからのギフトとなっていくのだろう。

幼少時の写真を見ながら、「自分」や「家族」を振り返る

幼少時の写真を持ち寄り、当時のことをシェアするワーク。

自分はその「ちいさな自分」の写真を見て、思わずある問いが立ってしまったことに驚いた。

それは・・・
「自分が生まれちゃって、大丈夫だったのかな・・・」というもの。

両親が働きながら、祖父母と姉の世話・面倒を見なきゃいけない状態にあるのに・・・

またもうひとり、世話をかける自分が生まれ落ちてしまって、よかったのだろうか。

そんな風に思っている自分を、見つけてしまった。

”リアル両親”との”セッション”で、思い込みを書き換える

講座の夜、自分は早速この ”問い” を投げかけていた。

リアル両親に、である・・・

その小さな自分の写真を見ながら問いかけた瞬間、思わず涙が溢れ、止まらなくなってしまった。

「何か思うのなら、我慢しなくていい」

そして、その写真を見ながら両親は、楽しかった思い出談義を始めていた。

「私たちは よっちゃんが生まれて・・・
・・・嬉しかった。楽しかった。」

「生まれて大変なんて当たり前だし、大変なんて、無いのよ。」

・・・そう、なんだ・・・

「むしろ もっと子どもが欲しかったくらい」
「でもね、余裕がなかったのよ。」

・・・余裕が、なかった。
これは”あの家族”で過ごした一員として、嫌というほど実感している。
でも両親から出てくる思い出話や、会話の中でわかった「大切なこと」があった。

両親にとっては「余裕が無いこと」も「大変なこと」も「楽しいこと」も、ただ ”当たり前のこと” として、存在していたのだ。
両方とも、”あるがままの現実であるだけ” だったのだ。

だからそんな「大変なこと」も、二人の中では不思議と悲壮感がなく、むしろ・・・

颯爽と駆け抜けていた。二人の話しぶりにはそんな感じが漂っていた。

そして、そんな中で自分が「生まれて嬉しく、楽しかった存在」として、そこにいた。

自分という存在が、この大変な家族に「嬉しさ」や「楽しさ」を、もたらしていた。

自分という存在は、両親にとって・・・

「ギフト」・・・だったんだ。 

この家族はただ・・・「(心の)余裕がなかった」だけ。
余裕がないから、子供の自分には、「わけが分からなかった」だけ。
余裕がなかったまま、よくわからないまま・・・

ただ愛を注ぎあった家族だったのだ。

愛だけが・・・「ほんとうのこと」だった。
 
 
自分はこうして、愛を忘れたが故の 先ほどの問い=思い込みを・・・捨てる事ができた。

改めて「自分の中にある愛に責任を持つこと、それを手放さないこと」の大切さを、思い知ったのだ。

そして今、自分は取り戻した「愛のまなざし」をもって、世界を見ていかなければならない。
一方で、まだ眠っている「忘れてきた自分の愛」を取り戻すために、心のクリーニング・クリアリングを続けるのだ。
 
 
バイロン・ケイティがそのワークのなかで行う質問:「それは本当ですか?」。
この質問に隠された真の意味は・・・

「それは、愛ですか?」

なのだと思う。

「自分へ還る旅」はつづく

自分にできることは、自分がただ、自分であることだけ。
 
ただそれだけでいい。
 
はじめから、ただそれだけが、現実だった。
 
はじめから、ただそれだけが、本当だった。
 

なのに、人はいつしか「自分の中に愛があることの責任」を放棄し「そうではない自分」になるために、力を使い続けてしまう。
そして、そんな状態で自分や人に優しくしようとするから・・・どこかで「うまくいかなく」なってしまうのだと思う。

自分もまた、その一人だった・・・

この世で唯一の「ほんとうのこと」というのは、愛だけなのだと思う。
そして、その愛から放射される物事だけが、「現実」なのだと思う。

それを取り戻す旅・・・・自分に還る旅はつづく。

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