きっと、ある。

先日の自主トレでクライアントをやらせていただいた時のこと。

カードを使ったセッションで自己(の強み)を探究するプロセスの中、自分からこんな言葉が飛び出した。

「絶望に絶望しない」

・・・そんな言葉を発した自分に驚くと同時に、「そんな言葉が存在して、いいんだぁ・・・」と、とても印象的だった。

絶望に、絶望しない。

・・・こうして言語化できるのなら、それは一体、どんな境地なのだろう。

「絶望」の”重力”は、あまりに巨大で強力だから

「絶望している状態」というのは、「絶望」と「私」が ”一体化している” 状態である

「絶望」のもつ重力はいつだって、あまりにも巨大で強力。

だからこそ、「私(の自我)」が、それに瞬時に飲み込まれるのは、無理もない事。
むしろ「絶望に飲まれずにいる境地なんて、存在するのだろうか?」と思ってしまう。

しかしながら、「心のこと」を探究する際には、仕組みとして
「その絶望に対して絶望することを ”私が選んでいる” 」という見方に立ってみる、というようなことをする。

つまり、「私」と「私の絶望(感)」は別個の対象であるから、それに対して「私」が「(心理的に)距離を取ることを選択できる」という心理的な視点・視座に立つことになる。

これは「絶望」と「私」の ”無意識的な一体化” を引き剥がして回避し、距離を取る、といったことへ通ずる。
こうしたモノの見方は、他の「自動反応してしまいがちな心理的事象」についても、同じことが言える。

抑圧的な強がりでもなく、力なき諦めでもなく、ただ距離を取る。

・・・言うは易し、ではあるけれど。
不可能ではない、ということか。

「私」とは別個の対象となった「絶望」との向き合い方も、きっと色々ある

その「絶望」に 「”打ち勝ってみせる” 私」、の人。

その「絶望」の 「”訳を知ろうとする” 私」、の人。

その「絶望」を 「”振り切って進む” 私」、の人。

その「絶望」を 「”受け容れてみる” 私」、の人。

・・・それらはいずれも、「絶望」を「私とは別個のもの」として ”取り扱っている” 在り方なのだ、と言える。

「絶望との一体化」によって その距離の取り方の 「”従者” になっていた私」から「”主人” である私」へと、変容していくこと。
そしてこれこそが、「絶望に絶望しない力」の、一つの源ではないかと思う。

絶望こそ「”あなたにとっての” 大きさ」を、大切に

絶望というのは、人(の心)にとって、とても重力の大きなもの。

だからこそ、「他者からみての大きさ」ではなく「自分にとっての大きさ、その実感」を大切にする。

実際に人から「それくらいのことで・・・」みたいなことを言われようが、関係ないのだ。

絶望こそ「”あなたにとっての” 大きさ」を、大切に。
・・・それは、あなたがあなた自身を大切にすることにも、つながっていく。

人にはきっと、”絶望に絶望しない” 力がある

人にはきっと、一生かけて取り組む必要のある絶望だったり、それをもってしても取り組みきれない絶望だって、あるかもしれない。

それでも。
・・・人にはきっと、”絶望に絶望しない” 力がある。

日本や世界を見回してみても、人は ”個人的なドン底” といったものだけでなく、災害や戦災からも立ち上がる力を持っているのだ。
 

それに実際、こうして ”絶望に絶望しない” という言葉が、存在するのだから。

・・・きっと、あるのだ。
 
 
「絶望に、絶望しない」。
・・・そしてその力は、あなたの中にも きっと存在している力なのだ。
 
 
 
 
おしまい。
 
 
 

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