ビリーフ手放しの是非を、先ずは検討へ。

さて、前回の記事で自分の「コア(親玉)ビリーフ=自己否定の中核をなしている絶対的思い込み」と「子分ビリーフ=コアビリーフを味わいたくないために生み出す思い込み」について書きました。
【脱・”足りない”ワールド】”足りないビリーフ” を 手放すために・Part1/3

そして、自分の具体例も記載。
「否定的自己定義の中核=コアビリーフ」は
・・・「私は見捨てられる人間だ」。 
 
それを味あわないようにする(=見捨てられたくない)ための「子分ビリーフ」は
・・・「見捨てられないためには、自分はどんなにやっても、まだまだ足りない。だから足りる(期待を充足させる)までやり続けないと、駄目になる」。 

・・・といったところ。

今はコアビリーフについては手を付けたので、極度の「見捨てられる!」にはならないのだけど。
子分ビリーフの持つ「足りない感で思考し、行動しないと”何となくダメになりそうな感じ”」はまだ随分「心のクセ」として残留している。
・・・まだコアが完全解放ではないのか、はたまた他の根深いヤツとの関連があるのかどうかは、不明。
 

というわけで、これの手放しを検討してみるのだ。

”足りないビリーフ”を持っていると、こんな世界観で、こんなデメリット。

自分の世界観は、こんな感じです。
 
---
いつも自分を「今すぐ」 「1回で」 「何もかも吸収して」 「スーパーマンにならないとヤバイのでは・・・」と、気分的に急かしている。
 
要するに、いつも「自分に足りないもの探し」をし続け、その「今足りていないものの膨大さに愕然」とし、「いち早くそれを解消するために努力する」という「足りないエンジン」「足りない私ワールド」を生きている。
 
「成長」という ”中途過程を生きる概念” に乏しい。
 
課題が山積のときは「そんな自分は、文字通り”足りていない”」となり、
課題をクリアしたらしたで「次の課題が見つけられない自分は、自己探求力が”足りない”のだ、うぬぼれているのだ」と自分を追い込む。
 
常に自分を「無い人」のフィルターで見ている。

その中で生きる世界観は・・・

「”足りない” エンジン」でアクセルを踏み続ける、生き方。
 
そして、どんなに走り続けても充足感のない、「”足りない” ワールド」だ。

「燃え尽き」に至るまでの ”カラクリ” は?

これは、既述の「コアビリーフ」が大きく作用している。

「見捨てられないために、人の期待に応え続けないと駄目になる」
  ×
「そのためには”自分の本音・感情” に気づいてはならない」
  ×
「その人の期待に応えるために足りてない事を常に察知し続け、やり抜き続けなければならない」
 

・・・となるのだ。

まさに

ビリーフ、豪華三点盛り!!

「コア直下の子分ビリーフ」×「抑圧の子分ビリーフ」×「”足りない”子分ビリーフ」。

胃もたれしそうだ・・・

そして、この世界観の作る”望ましくない本質”は・・・

「(本当は)やりたくないことを、やり抜いてしまうこと」

この「本当は」、というのがミソで。
周囲の期待を優先するために、「本当はやりたくない!」を自分に対して気づかせないように抑圧しているのだ。

そんな「心のブレーキ」を全力で踏んだ状態で、「そのために足りないモノを延々とやり抜く」という ”アクセル” を、踏み続ける。

「ブレーキ」を踏み込んだまま、前へ進まんとして「アクセル」を踏む。
 
 
ただしこれは、相手側の人から見ると、こんな現象が起きている。

「この人は、自分の期待(以上)の事をやってくれる、凄い人!」

こうなってしまうと益々コチラに期待をかけ、”世界” から・・・

「本当はやりたくないこと」がガンガン降ってくる(笑)。

実際前職ではこの現象が起きていたようで、むしろ所長に「この人はもっと教えないと物足りないのでは、そうしないとこの人はもっと大きな会社に行ってしまうのでは」という不安を抱かせてしまったらしく・・・これ、退職時に所長本人から聞いた話(笑)。

「足りないビリーフ」で突っ走っていると、相手に「この人はもっとあげないと物足りないのでは?」と思わせてしまい、ますますコチラは「うわー、まだこんなに”足りてないことが”あるのか、困った!」となる。

こうして ”足りない” 思考は、現実になる(笑)。 

そしていつしか「本当はやりたくない」という抑圧も限界を迎え、心身共にキャパオーバーへ。

ブレーキとアクセルを同時に全力で踏んでいる、車。

・・・車に例えてみても、壊れる=燃え尽きるのは当たり前。

「焦り」、「エネルギーの無駄遣い」、「燃え尽き」・・・こうしたデメリットが、「足りないビリーフ」には、潜んでいる。

それでも「ビリーフが手放せない」のは、「メリットもある」から。

今回の「足りないビリーフ」が持つ、一番のメリットは
 
「飽くなき向上心、探究心を持ち続けられること」

これではないかなぁ。

自身はいつも「足りない方」にフォーカスしているので実感がないけれど、そうやって
「いつの間にか成長している」ことができる、そんなエンジンでもあると思う。

特にこれは「やりたいこと」と組み合わさると、心強いエンジンになる。

「本当はやりたくないこと」と組み合わさると、破滅へ向かうけどね。
 
あっ、あと・・・あざとい方のメリットもある。
「足りない状態」にいることで「謙虚な私」になれて、「足りない指示を出してくれる人の庇護を受けられる」こと。 

う~む、あざといなぁ・・・

「やりたいこと」×「足りないエンジン」は、本当にメリットしかないのか? ~恐ろしいリスクの存在~

「やりたいこと」×「足りないエンジン」は、本当にメリットしかないのだろうか?

・・・実はこれには、恐ろしいリスクが潜んでいる。

それは

圧倒的「足りなかった私」。

「やりたいことベース」で「足りないエンジン」を回し、それでも「乗り越えられない壁」に対峙してしまった時。

そこには、「本当はやりたくない」という逃げ道すらない、「圧倒的虚無感・無価値感・無能感=足りなかった私」が待っている。

「自分は何もかも結局、足りなかった・・・ダメだった。」

おそらくはそんな境地だ。
 
そしてそんな私は・・・「見捨てられる。」
 
コアビリーフ砲、直撃・・・陥落。

「やりたいこと」を「足りないエンジン」で回し続けてもやっぱり、絶望感に襲われる脅威が、待っているのだ。

検討の結果。

「本当はやりたくないこと」であろうと。

「本当にやりたいこと」であろうと。

「足りないビリーフ」がもたらす最終局面は、結局「望ましくない結果」だ。

そして、この「ビリーフを捨てるかどうか」の基準は

「自分にとって ”望ましくないかどうか”」で、決めることにします。

「善か悪か」、とか「べき・ねば」で決めない。

「快・不快」「嫌かどうか」という、「理由のない、根源的な自分の感触」で決める。 

(ただね、その前に「人生の対価は、”苦労と引き換え”でなければならない」というビリーフが入っていると、「そんなの抜きにして 快・不快で物事を決めていい」という許可が自分に降りないのですよ・・・そういう場合はこの「苦労ビリーフ」からリセットせにゃならんのです・・・) 

「もう持ってたくないな。よく検討してみたら・・・なんか嫌なんだもん。」 

「よく検討して」、というプロセスには一旦”理性を導入”するけど、最終決定権者は、やっぱり「感覚・感性」だ。

そこに自分軸の決断があり、納得感があると思う。

その決め方の手がかりとして、その思い込みが発動している時の「身体的感覚」を頼りにしてもいい

焦りからの発汗や、頭真っ白な感じ、カラダのこわばり、肩こり、ダル重い・・・などなど。

そして今回の決断は
 
「もう捨てたいな、なんか嫌だもん。」 

このビリーフがもたらす、最終的な不自由さ、生き辛さ。

・・・アタマではじき出した結論に対する感覚の、重苦しさがイヤ

感覚がイヤだから、止めたい。
 
 
 
というわけで、次回はいよいよこの「足りないビリーフ・手放しチャレンジ」へ。

つづく。

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