黙して、祈る。

先月からずっと、傾聴等の自主トレをほぼ行わず。
カウンセラーおよびクライアント体験を、しなかった。

そうしたこと以上に、からだの感覚や意識そのものが欲していたことが、あったからだ。

それは「待ってみる」とか「立ち止まってみる」ということ。
これまで以上に、ただ黙して、ただ自分を観る、ということ。

・・・そうしたい理由があった。

ここ最近の自分の「心のあり方」に起きている変化は一体、何なのか。
以前とは異なる、今の「この感じ」は一体、何なのか。
 

それと向き合うために。
からだの感覚や意識そのものが「ただ黙して、ただ自分を観る」ということを欲していると感じたのだ。

「ただ黙して、ただ自分を観る」ことで ”見えてきたもの”

「ただ黙して、ただ自分を観る」うち、自分の中での最も大きな ”変化” が何なのか、ようやく言葉になって降りてきた。

自分は 「自己と世界」...特に「自己と人間関係」をこれまで結んできた「ある力」を、失ったのだ。

それは

察する力、読み取る力。

それこそが、他人軸だったこれまでの自分が、「時間」と「エネルギー」と「意識内シェア」を
圧倒的に割いて、やり抜いてきたものだった。

それこそが、これまでの自分を生き辛くしてきた、原動力だった。

自分の意識領域から まるでチョウチンアンコウの如く「察するためのアンテナ」を、他人へ向けて懸命に伸ばしては
その人の感情や意思といったものを、できうる限り「写実的に捉えなければ」と、躍起になっていたのだ。

それが、相手に寄り添うということ。
それが、相手に共感するために必要なこと。
 
それが・・・相手を「わかる」ということ。
 

・・・そう思っていた。

しかし、人が他者や世界を見ようとする時というのは結局・・・

原初の感情や過去の体験によって作られた、自分の中にある「前提」をもとにして
それを「解釈する」という領域の外を出ることができない。

自分の領域の中での「前提」と、それをもとにした「解釈」しか、起きていないのだ。

そんな「自己意識の檻」の中にいたまま「まず相手を察し、解釈する」と、どうなるか。

・・・必ずといっていいほど、そのとおりにならないストロークが、世界からやってくる。

なぜなら、相手がそのストロークをどのようにするかは、「相手の領域」だからだ。

だから、こちらが「察してしまう」ほど、こちらの「自己意識の檻」の中で
勝手に「そうでなければならないあの人」が、増殖する。

そしてその「察したこと」というのは、見事なほどに・・・裏切られるのだ。

そしてこの ”察する修行” は、「成功するという境地」が・・・永遠に存在しない。
他者や世界は、常にその察した「向こう側の領域」に、居続けるからだ。

・・・こうした「自意識の檻」のなかにあった「前提・解釈」を
自分は、心のクリアリング・クリーニングを通じて、削ぎ落としたのだろう。

こうして、お陰様で。
今はすっかり、他者や世界のことが・・・

ちゃーーーんと、わからなくなった。

それは、意識の軸を、自分に戻すこと。
自分のもとへ、帰還すること。

「察する、読み取る」という幻想によって、アタマから伸びていたチョウチンアンコウのアンテナも
所詮は「自意識の檻」の中の出来事でしかない事を知り、それを削ぎ落とすこと。

過去の悲しそうに見えたあの人が、あの時本当に悲しかったのか。
今大変そうに見えるその人が、今本当に大変なのか。
未来のこの人が、きっとそうなるに違いないのか。

・・・勝手に、察しない。

そんなの、わからないから。
「こちらの解釈の檻」の ”向こう側” にいる人たちの「ほんとうのこと」なんて、その人にしか わからないから。

わからない、ということが・・・わかる。
それによって、「察する力」を、失う。
 

失った、という・・・感覚。
それはもはや「察しないように注意できるようになった」という次元ではなく。
もう「察しようとしても、どうやっていたのか忘れてしまった」という感じだ。

そして、これによって できたのが

心のスペース。

埋め尽くされていた意識領域に「空(くう)」ができた感覚。

「察する」で埋め尽くされてきた場所が「空(くう)」へと、総入れ替えしている。

・・・これが、今の自分の「この感じ」に対する、不慣れな感じの ”正体” だった。
自分の心の中は今、静かな革命が起きているのだろう。

「心のあり方」に必要なのは「空(くう)」と「風通し」

そんな「心のあり方」に「空(くう)」ができたと自覚すると、ムクムクと湧いてくる古き習慣がある。

それを「また埋め尽くそう」という意識だ。

そしてそれは「私は何者かにならなければならない、という恐れ」からくるものである。

思えば、もしかしたらこの一年も結局は、自分のことを・・・
またもや「何者かに変えよう、変えよう」という力が、入っていたのかもしれない。

今度こそ自分に、優しくするのだ。
今度こそ自分を、癒やすのだ。
今度こそ自分に、還るのだ。

・・・頑張って。

今までとは違う「何者かに、なるため」に。

今度は、今までとは違うもので・・・

埋め尽くすのだ。 
 
 
・・・だからこそ。
今回の「黙して待つ実験」「立ち止まる実験」をやってみて、最も気づいたことは
「これこそが、自分が最も恐れていたこと、だった」、ということ。
そして

これこそが 自分が最もやりたかったこと、でもあった・・・ということ。

それが体感として、よくわかった。

自分が深いところで欲していたのは「新たな何かで埋め尽くすこと」ではなく「それを手放して、風通しの良い”空”を設けること」だったのだ。

「黙して待つ実験」「立ち止まる実験」による最大の ”気づき” とは

この「黙して待つ実験」「立ち止まる実験」によってもたらされた、上記のような気づき。

そんななかでも、自分にとって最大の ”気づき” があった。

それは
「黙して待つこと」「立ち止まること」こそが

「内なる気付き」を浮かび上がらせる・・・ということ。

それは外界から学ぶことを通じてなされる「外から得る気づき」とは異なるもの。
「黙して待つ」「立ち止まる」ことを通じてなされるのは・・・「内から沸き上がる気づき」だ。

それはいわば「自分とつながる」という感覚なのだろう。

内側から放射される、気付きの力。
自分のなかにある、自分だけの「ほんとうのこと」と、真摯につながること。

それは・・・
外界から学び、「外から得る気づき」で自分を埋め尽くそうとしているところから離れてみることで
浮かび上がってくるものだと感じる。

「黙して待つこと」「立ち止まること」は決して・・・「変容の死」などではなかった。
それどころか、そこには「変容の活性」があったのだ。
 

そんな”自分”は一体、誰に「最も生かされている」のか

この問いに対しては勿論、周囲の方々や世界に生かされているという殊勝な答えもあっていい。

でも、一つそこに忘れてはいけない存在が、あった。

それは

自分は自分自身に「最も生かされている」ということ。

自分という”存在”は常に、自分のいのち、魂、からだと、つながっている。

身体ひとつとっても、その自意識に関係なく”からだ”は24時間体制で細胞分裂を繰り返し、
異物を撃退し、栄養を分解して取り入れ・・・

あなたを「生かそう」と、全力なのだ。

だからこそ、自分は自分とつながり・・・気づくことが、できる。

だから、そんな自分はまず・・・自分自身に「最も生かされている」ということ。
そんなことに今一度、気づいておきたいと思うのだ。
 
 
 
 
立ち止まり、黙して、自分をただ、祈る。
 
自分にとっての”ほんとうのこと”に「気づく力」を思い出し、その内側から、気づきを放射する。
 
そんな自分へと、帰還する。
 
 
 
そうした ”静かなる革命” が示す「道」は、どこへ通じているのか。

それは自我の表層が知らずとも、深いところに存在する「気づける自分」が・・・
 
 
既に知っているのかもしれない。
 
 
 
おしまい。

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