両方あります。

よっちゃんです。
 
今更ですが、寺社仏閣が好きです。
 
でも、その日その日で、「お寺に行きたい時」と、「神社に行きたい時」がある。
 
「お寺モード」と「神社モード」。
 
双方に求めているものが、違うのだ。

1:「お寺モード」

お寺 に求めているもの、行く目的。

お寺 といえば、仏教。
 
その名の通り、その場所には「教え」がある。
 
教え、という言い方は少し堅苦しいので、「メッセージ性」とでも言うべきか。
 
それを何らかの形で、得るために行く。

お寺にて、”仏像” と向き合う

お寺といえば、仏像。
 
仏像と。
あの眼差しと、ただ向き合うと。
 
その時の自分の心の状態がわかるのだ。
 
例えば、あの眼差しに「なんか見下されてる・・・」という感情を持ったときは。
自分で自分のことを卑下しているときだったりする。
 
また、あの眼差しに「なんか怖い・・・」という感情を持ったときは。
自分自身が不安の強い状態にあったりする。
 
決して仏像が自分を見下したり、怖がらせたりしているわけではない。
自分の中の抑圧=自己否定を、自分が勝手にあの眼差しに投影しているのだ。
 
・・・そんな「今の自分のステータス」を確認し、整えることが出来る場所だと、思う。

オススメの ”仏像との向き合い方”

仏像との向き合い方でオススメなのは
 
「ヌンッ!」  
だ。
 
・・・って、説明になってないな(笑)。
 
なんというか、大きな仏像に、上から「ヌンッ!」と、見下ろしてもらうこと。
 
憤怒相の明王などではなく、穏やかな顔立ちの、しかも坐像がいい。
 
なんというか、「見透かされ感」を味わえるのだ。
 
個人的オススメは、京都・東寺の講堂における大日如来。
 
あのお堂は薄暗い中、比較的静かに拝観することができる。
 
堂内は土足で拝観する場所であるが、よっちゃんはここでいつも、人が少ないタイミングを待ち

真正面で ひざまずく。

変態なのか・・・
 
だって、そのほうが。
より低いところから見上げたほうが。
 
...大日さまに、より「ヌンッ!」してもらえるからだ。
 
そして「ヌンッ!」されても気持ちが安定しているときは、ステートが高いときのような気がする。
 

「人」もまた、面白い。

  
そしてまた、仏教の教えは「ほとけさま」単体では成立しない部分もあって、必ず人が介在する。
 
いわゆる、お坊さん だ。
 
お寺の御由緒や、教えそのもののこと、仏像の意味や年代のこと。などなど。ちょっと聞いてみると。
 
人によって色んな対応があるのが、面白い。
 
待ってましたとばかりに詳しく答えてくれる人。
参拝客が多すぎるのか、お疲れ気味な人。
面倒さそうに、上からの感じで答える人。
今にも死にそうな感じの人(いや、本当にいたのだ...)
 
「人が気持ちいいお寺」は、境内も気持ちよかったりして、お気に入りになったりします。
 
また、同じ質問を違うお寺でしてみるのも面白い。
人によって解釈やその柔軟さが違ったりするので。
 
人を味わうのも、お寺の醍醐味だ。
 
そうやって、「理」と「智」を使って内観し、メッセージをいただけるのが、お寺の魅力だと思う。

2:「神社モード」

神社 に求めているもの、行く目的。

お寺には「内観」を求めるとなると、ある程度のエネルギーがある状態が必要。
 
それに対し、自分が神社に行くとき、「神社モード」のときはたいてい

ちょっと疲れてきているとき。

神道っぽく言えば「穢れ(けがれ)」になろうか。
 
けがれとはすなわち「気枯れ」。パワーダウンの状態。
そこで神社に行き、ただ無心のようになって、気を吸いに行く感じ。
これこそ、神社が「パワースポット」と言われることが多い所以か。

神社に感じるのは、ただひたすらの ”受容”

神社には基本的に像のようなものはないし、厳しい教義のようなものもない。
 
ただ「場」があり、「自然や街並」があり、「佇まい」がある。
 
そこに人の「信じる力」が存在して、成り立っている・・・と感じる。
 
全てがただ「在る」に徹している感じがして、そこに理由を求める必要がない気がする。
 
そして、そこに佇む「理由のなさ」に、圧倒的受容を、感じるのだ。
 
常に理由付け・意味付けがつきまとう日々から離れ、頭をカラにして柏手を打ち
ここに自分が来た意味からさえも離れて「場」と一体化し、リフレッシュする。
 
それが神社の魅力だと、思うのだ。

まとまってないけど、まとめ。

気力体力がある程度あり、自己と向き合うスイッチのときは「お寺モード」。
 
気力体力そのものを整えるため、ただイマココの自分を感じ取りたいスイッチのときは「神社モード」。
 
どちらも好きなのだ。
 
 
おしまい。

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