よっちゃんです。
またツラツラと思ったことを書いてたら変態的独り言になってしまったので、そのままお漏らし。
 
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このところのテーマであった、やりたいことをやるための「快アンテナの復旧」。 
その復旧作業は、一歩一歩進行させることが出来ていると感じる。
 
そして、やりたいことをやる割合を増やすには、「やりたくないことをやらない」という圧縮も必要になるので
それを実践するようになる。
 
そうやっていると、いままでやってきたこと、これからやろうと自分に言い聞かせてきたことが何だったのか、分かるようになってきた。
 

価値に価値を見出す価値がある場合

沢山の「もんだ」にあふれていた、これまで。
 
「そういうもんだ」にあふれていた日々。
 
やりたいことをあきらめ、やりたくないことをやり続けるための「魔の呪文」だった。
 
でも、それも仕方がない部分もあるのかもしれない。
 
なぜなら、自分の世代は間違いなく、その「そういうもんだ」の呪文によって生命を繋いできた世代に育てられてきたのだから。
 
男は強くある「もんだ」。
男は早く職に就く「もんだ」。
女は家庭に入る「もんだ」。
子供は早くつくる「もんだ」。
早くマイホームを買う「もんだ」。
早くマイカーを買う「もんだ」。
子供はいい学校に入らせる「もんだ」。
子供はいい会社に入れさせる「もんだ」。
 
しかし、今は情報革命が進み、価値観と行動を主体的に選んでいい時代になった。
 
そして、この「もんだ」に潜む嘘を見抜き、離脱する人が増えてしまった。
 
「飲むもんだビール」は、飲まない。
「出るもんだノミニケーション」は、出ない。
「するもんだ結婚」は、しない。
「やるもんだ結婚式」は、しない。
「買うもんだマイカー」は、買わない。
「買うもんだマイホーム」は、買わない。

そんな意思決定をする人が増えてきた。
 
そしてこれは、単に消費能力が下降した、という事とは違うと思う。
 
ただ「価値のあるものを自分で判断するようになった」だけなのではないか。
 
現に「ビールを飲む人」も「飲みに行く人」も「結婚する人」も「結婚式を挙げる人」も
「マイカーを買う人」も「マイホームを買う人」も、いなくなってはいない。
 
 
そして、そんな世界を支えているものの一つは、インターネットだろう。
 
インターネットが普及し、個人が発信を始めると。
 
瞬く間に世界は「色んな意見があってもいい世界」へ変貌した。
そして、マスメディアの「ウソ」やマスプロダクトの「不誠実」があると、すぐに露見されるようになった。
 
そうなればなるほど、人は「価値あるものに価値を見いだせる」ようになってきた。
 
「価値に価値を見出すことの価値」を、体感し始めた。

例えば、家電一つ買うにしても、インターネットを利用して。
 
自分にとって価値のある情報を検索し。
自分にとって価値のある個人ブログを読み。
自分にとって価値のあるレビューサイトを参考にし。
自分にとって価値のある店舗を見つけ。
自分にとって価値のある価格で買い。
自分にとって価値のある支払い方法を選び。
自分にとって価値のある配送方法を選ぶ。
 
・・・そんな「価値行動」とそのための「意思決定」を、当たり前のようにするようになった。
 
 
そして、ここでいう「価値」というのは、何か。
それは、突き詰めるならば

そこに 自分にとっての「快」があるもの。

ただ、それだけだ。
 
そしてそして

「快」そのものには、理由・根拠がない。

「それのどんなところに快を感じているか」の分析はできるけど。
「なぜ自分はそれに快を感じる人間なのか」は、その理由を説明できない。
 
”だってそうなんだもん”。  
ただそれだけなのだ。
 
「理由なんてないけど、たしかにあるもの」。それはただ「在る」というだけであって、良いも悪いもないのだ。

価値に価値を見出す価値がない場合

だから「理由なんて無いけど、たしかにあるもの」に「価値や意味」を見出そうすると、かえってワケがわからなくなる場合がある。
 
その典型的な例が。
「人間の存在や、生きていること そのもの」についてだ。
 
それはもう「理由なんて無いけど、たしかに在る」ものであって「 在る ”しか無い” もの」なのだ。
 
・・・そういう「在る ”しか無い” もの」に対して、あらためて「価値や意味」を見出そうとすると、どうなるか。
 
 
・・・価値や意味が ”ある” を生み出すために、「どういう場合に価値や意味が ”無い” のか」を、考え出す。
 
そして、その分別をするために生まれるのが・・・条件だ。
どういう時に「価値や意味があって」どういう時に「価値や意味がない」のかを、考え出す。
 
すると、その自分で生み出した「条件付けの世界観」に、まずは「自分」が飲み込まれていく。
 
「この条件をクリア出来た自分は価値や意味がある」
「この条件をクリア出来ていない自分は価値や意味がない」を、やりだすのだ。
 
すると今度は その世界観をもって、外の世界、とくに「他者」を見るようになる。
自分で生み出した「価値や意味の有無を測るための条件リスト」を駆使して、どんどん他者をジャッジするようになる。
 
「この人は」「この人のやっていることは」「あの人の言っていることは」。 
「価値がある」「意味がある」「価値がない」「意味がない」。
 
そうやって、たかが70億分の1の世界観が生み出した ”一人相撲” に。
 
自分が。
自分から見える他人や世界が。
 
飲み込まれていく。
  
こうして「生きる価値や意味の有無を測る」というプロセスによって生まれる、特異なもの。それは
 

「自己否定」。

 
「この条件をクリア出来ていない自分は価値や意味がない」という「自己否定」。
もしくは「他者も否定的に条件付け・価値付け・意味付けしている自分はダメだ」という「自己否定」も出るかもしれない。
 
そしてこの「自己否定」というのは・・・
 
じつはその「自己否定」そのものが、問題なのではない。
 
その「自己否定」が

「快」ではないから問題があるのだ。

そして。
なぜ「自己否定」は「不快」なの?と問われたら
こう答えるしか無い。

だって、そうなんだもん。

だって、快なんだもん。
だって、不快なんだもん。
だって、存在してるんだもん。
だって、生きてるんだもん。
 
・・・ただそれだけがあること。ただそれだけが「在る ”しか無い” 」こと。
そういったものを「価値付け・意味付け」といった ”座標付け” で弄り回そうとすること自体、価値も意味もないのだ。
 
その価値に価値を見出す価値が、無い。 
そういった価値も意味もないところにこそ・・・価値や意味が、本質が...あるのだから。
 
だから、「だってそうなんだもん」というべきところの「快不快・感情・存在・生きていること」。
...これらに対してこそ、サッサと...次のキーワードを使うべきなのだ。
 
それは

そういう「もんだ」。

何事も、まずはここから始める。
 
この「だってそうなんだもん」を、「そういうもんだ」と、ただ受け入れる。
価値付けせず、意味付けせず、条件付けせず・・・いじくり回さないで、ただ受け入れる。
 
そしてその受容から湧き出てくる「こうありたい・こうやりたい」。
・・・それを実現する意思決定のために、ここでようやく取り組むのが
 
「そのための価値付け・意味付け」なのだ。
 
そしてその「こうありたい・こうやりたい」のための「価値付け・意味付け」に立ちはだかる、 
「 そういう・こういう ”もんだ” 」・・・という思い込み。
 
これを取り除く羅針盤こそが
「快・不快」「感情」「存在」「生きるエネルギーそのもの」といった 

「だってそうなんだもん。」

なのだ。
 
 
そう思う。
 
 
おしまい。
 
 

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