「事象」と「認知」は、関係がない

脳って、テキトー。

関東三十六不動霊場の札所がある、千葉県の国吉駅(いすみ鉄道)に行ったときのこと。
 
駅を降りると、目の前の広い野っ原で、火がモクモクと。

「野焼きかぁー」なんて、のんびり眺めてみる。
 
下車した他の人や、地元の人らしき人たちも、何かするわけでもなく、眺めてた。
 
と思ったら

あっという間に大集合。
 
火災だった、わけだ。
 
なんだかなぁ。
 
「事象」に対する自分の「認知」って、いい加減だなぁ。
 
・・・そうやって、 ”いい加減に「認知」してきた物事のストック” が、いっぱいあるんだろうなぁ。
 
というより

人間の「認知」そのものが、「事象」をややこしく意味付けしているのか。

野焼きだと「認知」して、ただ眺めてた人。
火災だと「認知」して、対応する人。
 
でも、本質は。
 
そんな意味づけはどこ吹く風で、ただ燃えて、ただ消えていく、 ”火” という

「事象」があるだけ。

だとすれば。
 
人間の本質は、きっと。
 
生きて、死ぬ・・・という「事象」だけなのか。
 
あとは・・・
そこに、「認知」という ”ややこしさ” を、どのようにストックしていくか、ということになるのかな。
 
だったら。どうせなら。
その ”ややこしいストック” の「質と量」は。
 
自分にとって都合のいい形で、ストックしていきたいもんだ。
 
 
おしまい。

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