なぜ、こうなったのか。

BRC、そしてLPLという2つの講座で、対人支援者になるための学びを始めた。
そして両講座では、講義のない日々においても、受講生同士でセッション自主トレを行っている。

「対人支援者は、自分を癒やしたところまでしか 人を癒やす事ができない」とも言われる。
そんなモットーも踏まえつつ、安全な“場”で、受講生同士が互いにカウンセラー・クライアントを体験を行う。
つまり“ガチ相談”をして自己をクリーニング・クリアリングしつつ、カウンセリングスキルも習得していく仕組みだ。

「主訴」として持ち込んだ “未完了の感情”

自分の中で終わっていない感じがしている、ある感情を、自主トレに持ち込んだ。

それは「あの家族に、もっと役に立ちたかった」という、無念な感情だ。
 
 
・・・何か得体の知れない抑圧・緊張を抱えているような気がしてならなかった、自分の家族。
自分は幼い時から、その状況が好転し家族が安寧になることを願ってしまっている子供だった。

そんなストーリーを傾聴してもらった後、まずマインドフルネスに誘導してもらい、「ちいさなぼく」に声掛けしてもらった。

「ぼくは役に立てなかった」・・・これは潜在意識の「ちいさなぼく」に響かなかった。
「ぼくは“もっと”役に立ちたかった」・・・この声掛けはとても響いた。この「もっと」というのが、響いた。

これによってわかるのは、「役に立てなかった」という全否定ベースの無念さは無い一方、「もっと役に立てたなら」という“不足”ベースでの無念さがある、ということだ。

そしてもう一つ、実感していた思いを、話した。
それは、この無念さが、もはや人に向けられたものではなく、「現実そのもの」に向けられていたこと。

「その “現実” に、子どものよっちゃんは 何て言ってやりたかったの?」
・・・その質問に、こう答えた。

「 “現実” はどうして・・・

ぼくに “力” を、くれないの?」

そう言葉にした瞬間、あの頃のあまりの悔しさで一杯になり・・・涙が溢れ、止められなくなった。

・・・力が、欲しかった。
大人の力が、欲しかった。
あの家族の、得体の知れない抑圧・緊張を解くことへ、関与するために。
そんな「大人の領域」に関与して、あの家族が安寧へ向かうことに、貢献するために。

「大人の領域」に関与する力が、欲しかった。

でも自分は、子ども。
どうあったって・・・子ども。

そんな現実が許せなくて、やりきれなくて・・・でも逆らえないその現実が。

無念だったのだ。

・・・言葉にして始めて、こんなにも悔しかったのだということが、わかった瞬間だった。

「自分の領域」・「他者の領域」・「神の領域」

「自分の領域」・「他者の領域」・「神の領域」。

・・・人が ”現実” というものを捉える時、この3つの領域がある、という考え方がある。

例えば。
人が「どうしてあの人はああなのよ!」とジャッジメントしている時、その人は人生における「自分の領域」を離れ、意識が「他者の領域」に“お出かけ”している。
そしてその間、”自分の人生を生きる担当者” が不在となるのだ。

そして「他者の領域」を変えようとする戦いは、絶対に勝つことができない。
そこにはただ「あの人が ああである」という現実があるだけであり、それは変えようのないことだからだ。

そしてもう一つが、「神の領域」
例えば「今日はキャンプに行くはずだったのに、どうして雨なんだ!今日は晴れるべきだったのに!!」というもの。
その雨はただ「雨である」という“現実”以外、何も内包していない。あなたへの嫌がらせの意図も何も、無いのだ。そこはもう、「神の領域」なのだ。

そしてこの「神の領域」にも、絶対に勝つことができない。
そして子どもの自分は「神の領域」に挑んでしまっていた。

・・・自分が子どもである、という現実。

それはもう、神の領域。

小さなよっちゃんはその “現実=神の領域” にクレームを投げかけ、「なぜ(大人の)力をくれないんだ!力をくれるべきだ!」と「絶対に変えられない、勝てない戦い」を挑んでいた。

そして、負け続けるべくして負け続け、無念さだけを抱え込むという悲しき一人芝居を、やっていたのだ。

子どものニーズが編み出した「役に立つ」という折衷案

「もっと役に立ちたかった」という思いの背後には、子どもとしてのニーズを果たす役割もあった。

それは・・・「かまってほしい」というもの。

でも、父からも母からも、何か得体の知れない抑圧と緊張を感じる。
そして何より・・・ただでさえ仕事で忙しい。

自宅の工場で、ふたりとも忙しく働き続けているところに、「かまってもらう」余裕など無い。
「かまってもらおう」として怒られることなんて、しょっちゅうだった。

あの抑圧感と緊張感が少しでも解けて、楽になってほしい。でも邪魔しちゃいけない。
その一方で、やっぱり、かまってほしい。

「楽になってほしいけど邪魔をしたくない」と「でもかまってほしい」の両立の道はないのか・・・
そして、この両者の折衷案こそが
 

「役に立つこと」、だった。

 
だから、仕事や仕事以外のことを「手伝うこと」。何かを「すること」で喜ばれること。
親が楽になり、邪魔にならず、かつその間かまってもらえる方策。
それが「役に立つ」、だった。

でも、子どものできる「役に立つ」なんて、ちょっとしたこと。
・・・だからそこに、叶えられない「もっと、もっと・・・」が、あった。

そんな状況が見えたところで、カウンセラーの提案により、エンプティチェアの技法で「ちいさなよっちゃん」と「大人の自分」を対話させることにした。
「ちいさなよっちゃん」の側で、あらためて味わう「自分が大人でないという現実の無念さ」。
しかし、それを味わった上で「大人のよっちゃん」の椅子に座り眺めた「ちいさなよっちゃん」の姿は、あまりに珍妙だった。

そこにいたのは・・・なぜか「大人の領域」に関与できないことを嘆き、うなだれている・・・子どもの姿だった。

子どもなのに、子どもらしからぬ・・・風変わりな、子ども。

思わず笑ってしまいそうになった。

「こっちのことはいいんだよ、気にしなくて・・・こどもなんだから。こっちのことは大人でやるんだから、いいんだよ。ただ伸び伸び遊んだりしててくれれば、子どもはそれでいいんだよ。」

そんな思いを、向き合いの椅子に“いる”「小さなよっちゃん」に、声掛けした。

「でも、ありがとう。助かってるよ。」
思わずかけたその声は、大人の自分の声でもあり、両親の声が降りてきている感じも、していた。

「もっと、もっと」と思わずとも役に立っていたことを知った、目の前の「小さなよっちゃん」。

そんな“彼”が、無念さを解き、緩んでいく・・・そんな気がした。

そんな「無念さを解き緩んだ、小さなよっちゃん」を、今の “大人の自分” の内に “戻し入れたい” と、思った。

気持ちを癒やし、且つ「役に立ちたい思い」は残したままの“彼”を、統合したい・・・そう思ったからだ。

そして大人の自分は、“彼”の前に立ち膝で向き合い、抱きしめ・・・胸の中に“統合した”。

子どものくせに“願ってしまったもの”と、その“深さ”を、実感する

このセッションの一連の流れのなかで、カウンセラーともうひとりの仲間に、父と母のロールプレイをしてもらい、それを「ちいさなよっちゃん」が眺める、という実験をしてもらう場面があった。

少し離れたところから眺める、ミシンで縫製作業をしている、二人の背中。

自分にとってのリアルな“親の姿”は、こちらを向いている姿ではなく「頑張っている背中」の記憶だった。
そして眺める、二通りの姿。

一つは、「忙しいバージョン」。
仕事に追われながら、祖父母の世話も忙しく対応しなければならなかった姿だ。

いつも見ている姿、という実感。

そしてもう一つは・・・「ゆったりバージョン。」
仕事も一段落し、祖父母の世話対応にも追われず、やっとよっちゃんと「遊んであげられるなぁ」、などと会話している姿だった。

・・・「見てきた姿」から・・・「見たかった姿」へ。

涙がこみ上げた。

同時に、こんな思いになった。
「二人が楽になれれば、それでいいから。自分と遊んでくれるかどうかは、“副賞、おこぼれ”でいいから・・・」

「自分が構ってもらえること」よりも、「頑張っている親が楽にしている姿」を・・・

“見ていたい”。

なぜか、その思いのほうが・・・どうしても、深い。
これが「小さなよっちゃん」が持っていた願い・・・子どもの“エゴ”だった。

なんと子どもらしくないのだろう。

でもそれが子どもらしくない願いだなんて、わからなかった。
だって、子どもだったから。
 
それが風変わりだなんて、わからなかった。
だって、子どもだったから。
 
「大人の領域に関与するなんて出来るわけがない」なんて、判断できなかった。
だって、子どもだったから。
 

「小さなよっちゃん」がなぜこのような“願い”をもってしまったのか。
なぜ、その願い故に「神の領域」に挑み、勝てない無念さを積み重ねたのか・・・

一つは この家族の得体の知れなさに覚えた”危険さ”や”恐れ” だったのかもしれない・・・

ともかく、そうなってしまったのだから仕方ない。

けれど。
今の自分は、こうして“彼”を癒やし、愛おしんでもいいのだ、と思う。

そして、彼と共に・・・

「同行二人」で、これからを進んでいっても、いいのだと思う。

おしまい。

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