待つ力。

BRC、そしてLPLという2つの講座では、対人支援の学びを深めるため、講義のない日々においても受講生同士でセッション自主トレを行っている。
そんな自主トレの中で、自分は今回「OSHO禅タロット」というツールから得たインスピレーションをもとにクライアント体験をした。

「OSHO禅タロット」とは

”OSHO” こと バグワン・シュリ・ラジニーシは、インド宗教家・思想家。
インドの運命を変えた10人の1人として、仏陀やガンジー、ネルーと並び称されている”覚者”、つまり”悟りを得た人”だ。
そしてその講話録は650冊以上にものぼり、世界50ヵ国以上で翻訳、出版されている。
 
そのOSHOの教えをもとに制作されたこのタロットは いわゆる占いのツールではなく、「イマココ」の理解を得ること、そのための「気づき」を得るためのツールだ。
 
【あなたを導く禅の思想】Osho Zen Tarot 和尚禅タロット 日本語版 (Amazon)

実際にカウンセリングセッションで用いることもあり、クライアントがセッション前、もしくは後に引くと、その人にとって”ドンピシャ”なテーマを引き当てることもしばしば。何とも不思議なツールだ。

個人的な理解、としては・・・
人にはこの70数枚のタロットに記された、潜在意識レベルでの「人生に関する”心当たり”」があって。
・・・このカードを引くことで、いつも外側に向きがちな思考や感情を内側へ引き戻すとともに
そのカードから得た「潜在意識からの気づき、インスピレーション」を元に、日々を”チューニング”する。
・・・そんなツールなのだろう、と思っている。

「OSHO禅タロット」から繋がっていく、セッション体験

今回、LPL講座や自主トレなどでも用いられるこのツールを、自分でも買ってみた。

そして、購入後に2回連続で引いたのが、アイキャッチにもある「PATIENCE」だった。

PATIENCE。

このカードの伝えるメッセージは、いわゆる「耐え忍ぶ」といったものではなく、どちらかというと。

・・・「”待つこと”を忘れていませんか?」という、投げかけ。

そして自分には、その「心当たり」があった。

自分はどうも、いつも「何かしていなくては」と、イソイソしたマインドでいる。

・・・思えばバーンアウトする直前の時期も、度々続いていたあの”謎の体調不良”を振り切るために・・・
「休む」のではなく、「体を鍛える」ことで、解決しようとした。

「休みたい」という ”内なる声” を無視し、強い ”何者かになろう” として。
仕事帰りの疲れた体にムチを打ってジムへ通い、動きまくった。

そうやって「何かをする」ことに追い立てられ、焦り続けた結果・・・うまく行かなかった。

そして今。そんな「痛い目」を見て学んだ今もなお・・・そのマインドが残っている。

そしてもう一つ。
そうやって「何かをする」ことが、「(対外的な)成果物でないと、ソワソワする」マインドもあることに気づいた。

今は「心のこと」を学んだことで、自分の ”Want” に気づいてあげて、また従えるようになってきたけど。

・・・それが「成果物である、と思える」ことが、実行に写すための ”決済印” に、なってしまっている感じが、まだ残っている。
もしくは、「何かの成果物があったから、その”Want”に従ってもいい」という ”セルフ条件付け” も、やってしまっている。

その点では、このブログが一つの ”救い” になっている。
自分の体験などを対外的発信として昇華することが ”Wantを許可する決済印” になってくれているからだ。

しかし、そのマインドセットは、もうそろそろ外す時かもしれない。
もう「そんな自分」に、そろそろ疲れてしまっているのだ。

”Doing依存症” が卒業できず、むやみに焦っている、「イソイソよっちゃん」。
そんな状況に疲れているし、ただ無条件に自分のWantのままにいたい「ゆったりよっちゃん」。

そんな「内なる二人の葛藤」を、例によって「エンプティ・チェア」の技法で対話させてもらうことにした。

「内なる二人の葛藤」による ”禅問答”

「ゆったりよっちゃん」の椅子に座ると、その感覚は、ただフラットで。
焦っている「イソイソよっちゃん」に引っ張れられることもなく、落ち着いている。

ただ、落ち着いている。
 
・・・。
 
 
そして今度は「イソイソよっちゃん」の椅子に座り、向かいの「ゆったりよっちゃん」を見ようとすると・・・

なんだろ、これ・・・

目を合わせるのが、ちょっと恐い。勝手にワチャワチャしている自分が、勝手に申し訳なさで包まれ・・・胸が苦しくなる。

なんとか「ゆったりよっちゃん」と顔を向き合う。

苦しい。

”彼” は、何も訴えかけてこない。わけのわからない申し訳無さに包まれた自分を、裁かない。

何もしない・・・なのに、ただ圧倒的な ”何か” が、そこにある。

何なのだ、これは・・・

それを確かめるべく、今一度「ゆったりよっちゃん」に座った。
 
 
 
・・・そうか。そうなのか・・・そうだったのか。

この「ゆったりよっちゃん」は、知っていたのだ。

自分にできる唯一のこと。
そして、自分が自分であることの最大最上の、source(源)。

それは

存在、そのもの。

存在そのものの、揺るがなさ。
自分が自分であることの、揺るがなさ。
「ゆったりよっちゃん」は、その ”点” にただ、ドシーンと鎮座しているだけ。

それが ”すべて” であり、”真実” なのだ・・・と、わかっていたのだ。

だから、「存在そのもの」の内に座し、ただ「イソイソよっちゃん」を・・・

待つ。

待つ、だけ。

待つだけが、待つことこそが・・・唯一にして、すべて。

これぞ

Power Of Patience.

あのカードが示していたもの。
自らのお腹に「存在そのものの力」を宿し、また それを宿している自身の”存在の力”を信じ・・・
その”真実”の内に、ただ座している、妊婦。

「待つことの力」を信じている、その姿。
 
 
あのカードが示していた「待つことを忘れる」というのは・・・

存在そのものの力、存在そのものの真実を、忘れてはいまいか・・・ということだった。

しかし、そうやって ”存在の力” を忘れ、Doingを追い求め、Doingで進み、何者かになろうと奔走したところで。

それによって忘れ去られようが何をしようが・・・”存在” は、揺るがないのだ。

揺るがないから、ただ ”待つ” のだ。
 
 
「もうだめだ、早くイソイソよっちゃんの席に戻らねば・・・そして、やることがある」
そう思った自分は、イソイソよっちゃんの席へ。

そして、「イソイソよっちゃん」のやったことは。

・・・”彼”のもとへ・・・彼の隣まで降り、”屈服すること” だった。

こうしてようやく「イソイソよっちゃん」は焦りを緩め、落ち着きを取り戻したのだった。

「エンプティ・チェア」という名の・・・

「”存在” から突きつけられた、無言の禅問答」が、こうして終わった。
 
 
人はいつしか、自分という ”存在” を忘れ、”存在の力” を無視し・・・
それ故に ”わからなさに留まる” ことができず。”存在そのもの” が起こす ”プロセスの力” を待てず、信じず。

自身をDoingで埋め尽くそうとする。

それは、ある所までは、うまくいくものだろう。
しかしなぜか、それだけでは、どこかで・・・限界が来る。

行為やモノ・・・Doingの再検討を繰り返すだけでは、いつか限界が・・・来る。
 
 
しかし、そういうときこそ。

その ”わからなさ” に留まり、信じ。
その ”存在そのもの” が起こす ”プロセスの力” を・・・信じて、待つ。

待つことの力を、信じる。

それが必要な時が、あるのだ。
 
 
人が「それ」を「行き詰まり」だ、という時。
人が「それ」を「停滞だ」と、決めている時。

人は自分のモノサシで、勝手にそう思い込んでいる。

そして、そんなモノサシすら凌駕する「存在の力」を、無視している。
・・・そんな可能性が、あるのではないだろうか。

しかし、その点に気づき、今一度「待つことの力」を信じ始めたとき。

人は、自分の内にある ”一の鳥居” に立ち。”山門” に立ち。その内へと進み・・・
”問い” と、そして ”答え” へと、旅をする。
 
 
ただ初めから自分の中に座していた ”真実” に、会いに行く。
 
 
そうやって、見失っていたプロセスを、取り戻す・・・のではないだろうか。
 
 
 
”わからなさ” に、留まる。
  
”わからなさ” を、信じる。
  
”存在そのもの” の力を、信じる。
 
”プロセスの力” を信じて、待つ。
 
”待つことの力” を、信じる。
 
 
これを取り戻すのもまた、人生修業だ。

・・・そして、このことに光を当てたときこそ。
 
 
Doingが再び輝き、自身に統合されていくのだと思う。
 
 
 
 
今回のクライアント体験は、そんな大切な”気付き”を、得るためのものだった。
 
 
おしまい。
・・・しかし、当ブログ史上 なかなかに”アヤシイ”記事になってしまったな・・・
 
 

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