さぁ、探究。

セッション自主トレの参加について「なんか、”今”じゃない感じがするなぁ・・・」という、ちょっとした「気持ちの変化」を「いけないことにしている自分」によって気づいた、ビリーフ。

気持ちの変化にしたがって態度や行動を変えると、人に迷惑をかける」というビリーフの、探究。
(前編の記事は こちら

あれっ・・・これ、先日も似たようなビリーフのリセットワークをやってもらったばかりなのになぁ。
その時は「”自分本位なことを言うと”、人に迷惑をかけて、相手を怒らせる」・・・ってやつだったんだけど。

なんだかなぁ・・・ちょっとニュアンスが変わると、また反応が出るのかぁ・・・

そんなことを念頭に置きながら京都のホテルで眠りに入ろうとウトウトしてきた瞬間に・・・

色んな気づきや過去の感覚が数珠つなぎに降りてきて、思わず目を覚ました。

「ごめんなさい・・・??」

気持ちの変化にしたがって態度や行動を変えると・・・親に迷惑をかけてしまう。

ただでさえ介護と仕事で大忙しな、”あの時の両親” 。
そんなギリギリの統制で噛み合っている日々の生活の歯車を、自分の気まぐれでかき乱す訳にはいかない・・・

「最初に○○って、言ったじゃないの!」「どうして最初から、そう言わないの!」

・・・怒らせてしまう。

「ごめんなさい・・・」

・・・そうだ。
自分にとっては「怒られること」より「怒らせること」の方が、辛かった。

・・・親を「怒らせる」ことで、ただでさえ忙しい親にその”時間”と”労力”の無駄使いをさせてしまう、申し訳無さ。
それが何とも辛かった。

・・・そんな感覚が、蘇った。

そして、その背後にある感覚もまた、降りてくる。
「あんなに日々頑張っている両親の ”背中” を、壊したくない。」

「・・・そのために関与できることが、”子どもとしてやれる範囲” でしかないことが、悔しい。」

「親が ”ホッとする瞬間” を見たくて、そのために ”もっと役立つ力” が、欲しかった・・・」 
先日の自主トレで癒やしたはずの、そんな感覚が、また蘇る。

・・・そうか、この感覚は自分の思っている以上に根深い感覚なのだ、と あらためて思い知る。

そしてもう一つ思い出す、感覚。
それは先月の あやちゃんの個人セッション で確認した、自分が生まれ落ちた瞬間に抱えてしまっていた「本音」。

「この緊張と抑圧、得体の知れなさ・・・この家族は、なんなの?・・・ひどい!」という感覚。
 
  
この家族の ”得体の知れなさ” に恐怖し、何とかその全容を知ろうとして「問う力を育てる」という、戦い。
そして、それを紐解き、いつか親が”ホッとするその日”を望むがゆえに、そのための「”役立つ力” を欲しようとする」という、戦い。
 
それがいつしか「自分ソッチノケ」で「他人軸人生」を歩む結果となっていた。
 
そして。
自分が抱える、人生への「悲しさ・切なさ」の感覚の源は ”ここ” にある・・・どうしても、ここに・・・戻ってくるようだ。

それが腑に落ちた。

そして、そんな「悲しさ・切なさ」に触れ、少し喉と胸が詰まった感じのまま・・・その日は眠りについた。

そして、翌朝。

まだ過去に置き切っていない、その「悲しさ・切なさ」を携えて向かったのは、東寺。

自分はこうした「悲しさ・切なさ」を抱えているときは、何となくお寺に行く。

それはもしかしたら、無意識に「慈悲」を求めに行っているのかもしれない。

そして目指すは、講堂。
あの五智如来さまに・・・金剛大日如来さまに、見下ろしてもらう。

訪れるたびに印象が異なる、あの深い眼差し。
・・・今日の眼差しは、これまでの「救いを差し伸べる」でも「こちらを畏怖させる」でもなく・・・

そのどちらでもなく、ただ「待ってくれている」眼差しだった。
こちらの中で「何かが起こる」のを、「ただ待ってくれている」眼差し、だった。

深い慈悲を、感じた。

・・・そうしてじっくり向き合い、講堂をあとにした頃。
自分は不思議と、あることを「もう肚に決めなければならない」、という感覚になっていた。
 
 
この家族の”得体の知れなさ”を、生まれながらにして「何なの?・・・ひどい!」と思ってしまった自分には・・・
・・・「愛がないのだ」と思ってしまっていたけど。
 
そうやって、自分の中の愛の存在を・・・どこかで諦め、否定しようとしていたけど。
 
 
もう、そこじゃない・・・そうじゃないんだ。
 
逃げちゃいけないんだ。
 

・・・自分の中には、愛がある。

だから、あの家族の「得体の知れなさ」に挑み、問う力を・・・諦めなかった。
あの家族が緩み、ホッとする日のために、役立つことを・・・諦めなかった。

それが自分にとっての・・・「愛の定義」だった。
 
あの時の自分も、あれで、愛のつもり、だった。
 
あれが自分の、せいぜいの・・・精一杯の、愛だった。
 

・・・そこから、逃げない。

逃げるから、「ああだった自分」の側面1つ1つが、自己否定になり、悩みになり・・・
「悲しみ」が、「切なさ」が、終わらない。

・・・過去を過去に、置いてくることができない。

だからもう、肚に決める。

「肚に決める」というのは、自分に無理やり嘘をつくことではない。
むしろ「本当のことに言い訳せず、立ち戻る」ということだ。
 
 
自分の中には、愛がある・・・そう、肚に決める。
 
 
・・・そうして。そう決めることで、初めて。
「自己の中にある愛」をもって、他者を、世界を・・・投影する。
 
 
あの人達が、この世界が・・・「愛ある人」に、変わる。
「既に愛ある人たち、愛ある世界だった」ことに、気づく。
 
 
もう・・・そう肚に決める。

かといって、そう決めた即座に、これまでの「悲しみ・切なさ」が消えていくわけではない。

しかしながら、そう決めることで戻ってきた自分の愛が、その「悲しみ・切なさ」に絶えず光を注ぎ・・・
いつしか、その感情が「成仏」するのではないだろうか。

そういう「感情の自己治癒」も、あっていいのではないだろうか。

・・・そう、思えるようになった。

そして、そう思えるようになった瞬間に、喉と胸の詰まりが取れ、肩が暖かくなり・・・呼吸の深さが、戻った。

・・・ホッとした。

今はこの感覚で、行ってみよう。

またどうしても辛くなったら、仲間の力をお借りして・・・ 
癒やせばいいよね。
 

人が楽になったり、ブレイクスルーする場面への”喜び” と共にあった、”もう一つの感覚”に対する、気付き。

人が楽になったり、ブレイクスルーする場面に立ち会った時の ”喜び”。

・・・自分がこの”喜び”に触れる時、もう一つ触れている感覚があった。

それは・・・「しみじみと切ない」感覚。

・・・それが何なのか、今まではわからなかったけど。
今回の”内観”で、それが何なのか、わかった気がする。

それは
「これを ”あの時の家族に、親に・・・そして、自分にも”・・・

・・・してあげられなかったなぁ・・・」という、一抹の切なさだったのだ。

自分が今こうして対人支援への学びをするようになったのも、こうして繋がっているんだ。

でも今はその切なさを、過去のためではなく。
ちゃんと過去に置いてきて、これからのために・・・活かしたい。

この思いが、少しでも「自分のミッション」に繋がり、統合されていくことを・・・祈りたいと思う。

今は、そう思っている。
 
 
 

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