
「からだ」というものは、「自身の意識が非言語的に感得し続ける、感覚的マグマ」である。
「こころ」というものは、「そのマグマを比喩的に描写し、表現し、言語化したものであり、そのマグマから無尽蔵に生み出される 水蒸気」である。
・・・僕はそんなふうに、「こころ」と「からだ」の関係性を言い表します。
そして、僕が「心の探求」の果てに感得した、生きづらさの正体・・・
それは、心理的なものというより「自分が生きていること、そのものに対する”大丈夫感の無さ”」という「体の感覚そのもの」でした。
僕は、この ”生き辛さの正体” を突き止めるとともに、この記事に書いた通りの、あまりに単純な方法で、このマグマを穏やかにしていく体験を重ねました。
そしてこの方法は、誰からの教えでもなく、僕の身体そのものが教えてくれたものです。
まさに、身体のコトワリ、「身理の教え」でした。
そして、この体験を通じ、この身体レベル・非言語レベルでの生き辛さの根源=「自分が生きていること、そのものに対する”大丈夫感の無さ”」という「体の感覚そのもの」を、
「X」
と、呼ぶことにしました。
なぜなら、それに何らかの「心理的な名前」をつけてしまうと、アプローチの対象が「マグマ」から「終わりなき水蒸気への対応」へと、矛先がずれてしまうからです。
「それ」を「それ、という非言語なもの」のまま、扱う必要があるのです。
仮説:Xホルダー論
僕は、この”X”を知らず知らず持ち続けている人のことを、つまりは自分のことを、
「Xホルダー」と呼ぶことにしました。
そして、この「Xホルダー」が世の中に僕だけではないとするならば。
・・・その人達は、人生のどこかのタイミングで正体不明の生き辛さを自覚し、
それをなんとかしようとする果てに「心の学び」や「自己探求」に行き着くことが多いのではないかと思います。
そして、カウンセリングやセラピーといったものと出会うものの・・・
度々にして「一時的に開(ひら)けては、もとに戻る」を繰り返すのではないかと、思います。
そして、その理由は・・・
”X”というマグマが鎮まっていないから、というのが、僕の仮説です。
「心理」「言語」を軸としたカウンセリング、セラピーであっても、それらは身体感覚をないがしろにしているわけではなく、
むしろそれらによる「目指すべき着地点」というのは、一言でいうと「大丈夫感、という無意識レベルの体感覚」であるはずだと、僕は思います。
「腑に落ちる」という言葉そのものが ”体感覚の表現” であることからも、それは明白だと思います。
しかし、Xホルダーは、というと・・・
カウンセリングやセラピーによる心=水蒸気のクリーニング・クリアリングがいざ実現したとしても
その”晴れた霧”の先にある、ダイヴしようとしている「腑=着地点」が・・・
「大丈夫感、という体感覚」ではなく、その真逆の、煮えたぎったマグマのままなのです。
ペルソナの破壊と、先延ばしにしてきた”Xの暴露”
そして、Xホルダーは、Xホルダーだからこその、「Xからの防衛方法」があります。
それは、「巧みな”自己内部の言語化” によって、Xを濃霧に包み込む」という方法です。
この方法は、自身に対するXの暴露を遠ざけるメリットがあります。
と同時に、Xの暴露を先延ばしにすることは、リスクの側面もあります。
Xホルダーは、「自己探求」というものが「Xの暴露を先延ばしにするための、格好のエサ」になってしまうリスクがあります。
すると、Xホルダーは「悩んでいる私、というペルソナ」と「それを晴らしていき進展している私、というペルソナ」の両方を、巧みな言語化によって、複雑なミルフィーユの如く多層化し、設定し続けてしまうのです。
このプロセスが、本人も気づかぬまま、無意識のうちに進みます。
「生き辛さの根っこを突き止めよう」としているようで、
それが無意識の防衛本能として「Xを遠ざけるためのペルソナの厚塗り」に、なっているのです。
・・・まぁ、これはあくまで僕の体験でしかないのかもしれないけど。
「ペルソナの厚塗り」は結局、その「ペルソナ破壊」の加速をもってバランスする運命にある
分厚く塗りすぎた壁はやがて、しなやかさを失い、逆にヒビが入りやすくなるものです。
そして、崩壊するときというのは、表面からではなく、すべてが一度に崩れ落ちるものです。
僕が自己探求によって得た体験、プロセスは結局、そういったものでした。
そして、人生をかけて先延ばしにしてきた ”X” が、露わになってしまったわけです。
「自分が生きていること、そのものに対する”大丈夫感の無さ”」という「体の感覚そのもの」。
・・・誰にも理解されず、誰とも共有できないこの感覚が刺さり続ける体験は、これまでのどんな「心理ステージでの悩み」よりも、ひどいものでした。
これが言葉で伝わるかわからないけれど・・・
僕は、自らのこの「Xが自らに放ち続ける体感覚・体反応」に、
正直「殺されるのではないか」と、思いました。
自分の命そのものが、ドロドロに溶かされ続けているような、
そんな体感覚で居続けなければなりませんでした。
・・・というふうに言葉にすると、とても正気ではないし、滑稽なのだけど。
そして、これに対応しようとするための「言語化の嵐」も起きていたけれど
結局はどれも「的外れ」だったわけです。
そんな体験の果てに「自分の体からの教え」を授かり、「”身理”アプローチ」によって、「”X”というマグマ」のケアをしてきました。
”X” と歩む人生は
”X”と向き合いながらも、人生は進みます。
この状態は、まるで「羽化不全のカブトムシ」のような体感覚です。
他者との、社会との ”接触面” が一向に堅牢な線引きにならずに
ブヨブヨのままで、外からの感覚が刺さり続ける体感覚です。
「あぁ、僕が先延ばしにしてきたものは”これ”なのだろう」
「”体表”が固くなるまで、僕はこれを味あわなければならない」
ということはわかっていたので、何度も ”体調不良=体感覚不全” によるシャットダウンを繰り返しながら
あくまでノンバーバルに”これ”を味わい続け、慣れていきながら、今に至っています。
これによって、少しずつ僕の ”体表” は、固くなってきているのではないか、と思います。
僕の感覚でしかないこと
僕が行き着いた「”身”理の教え」は結局、誰からも教わることができないものでした。
そして僕も、誰にも教えることができません。
人それぞれが、「私の感覚でしかないこと」を、大切にする。
・・・それが、「”身”理の教え」である、ということのようです。
そして、僕はようやくにして・・・
「自分の感覚」で、「自分の言葉」を操れるようになってきたように思います。