【禅・瞑想】「瞑想、始めよう 入門ワークショップ」に参加して

「イマココ」への、還り方。

先日、「瞑想、始めよう 入門ワークショップ」に参加してきました。

会場は東京・清澄庭園の中にある「涼亭」という建物。

▼涼亭からの景色。

猛暑の日々のなかで一時的に気温の低い一日だったため、清々しいなかでの体験となりました。

ゲストは、藤田一照(ふじたいっしょう)さん。長くアメリカで坐禅を深め指導にあたり、2010年から2018年まで、曹洞宗国際センター所長。
最近ではオンライン禅コミュニティー「磨塼寺(ませんじ)」の活動にも力を注ぎ、深く坐禅を愛し、分かりやすく広める活動をされている第一人者。
禅や仏教に関する著書も多く出されています。
Amazon検索:藤田一照(本)

企画・進行役には、”koko” こと 丹羽順子(にわじゅんこ)さん。平和国家コスタリカに住みながら、瞑想を深め、ほかにもブレスワーク、NVC(非暴力コミュニケーション)、共感コーチングなどを通して、全てを受容し、「今ここ」とつながれる場を創る。「本物の自分を生きる」をテーマに活動している方です。
サイト:imakoko

そして、今回は「入門ワークショップ」ということもあり、自分のように瞑想について知りたい初心者から、日頃より瞑想を取り入れている方まで、幅広く参加していました。

「在り方」あっての、実践

まずはヨガの太陽礼拝の動きを用い、「グラウンディング」
地面にしっかりと”根”を下ろし、つながる。
それは瞑想の導入に限らず 内と外、双方のエネルギーとつながる為の、全てにおいて大切な「出発点」のようなものと感じた。

特に現代人は、椅子に座るようになってから「下半身の感覚・自覚」に鈍感になってしまったらしい。
そして、それがもたらすマインドセットは「自信の低下」「迷い」なのだそう。
だからこそ、欧米も含め「坐すること・グラウンディングの大切さ」と、その実践としての「禅」が注目されているのも、わかる気がする。
 
 
そんな「グラウンディング」から、すぐに瞑想の実践・・・ではなく。

一照さんが時間を割いたのは、その前提となる「在り方」の説明だった。

「禅」と「瞑想」の在り方と、違い

禅の求める境地、瞑想の求める境地。
・・・それはある意味ではどちらも「瞑想の境地」として「一括り」にされているが・・・

実は、両者の世界観は、対照的なものだった。
そして、今回のワークショップで身を置くのは「禅」の瞑想だ。

その違いを、一照さんは単に「瞑想」・「禅」という言葉で説明下さったけれど、
当記事ではあえてクドく「修定(しゅうじょう)型瞑想」と「禅の瞑想」という言葉で対比し、書いてみたい。

「修定(しゅうじょう)型瞑想」の世界観・境地

修定(しゅうじょう)とは、いわば ”正しく” ”する” というもの。
この瞑想における ”定(じょう)” というのは、究極的に内面へ沈むことで得られる「不動のフラット状態」とでもいうべきものだ。

それゆえに、そこへのプロセスはというと・・・

そのための「ゴール」を「オーダー」し、修定 すなわち「コントロール」する。
それゆえ、ゴールへの基準が「自分の”外側”」に存在する。
不安や恐怖に対する防衛を作るため、特定の一点への集中することで、”それ以外” を排他し続ける状態を作る。

「無為」という状態を「自我で」「Doingし続ける」。

「究極的コントロール」による、「止」の境地である。

・・・そして、この「修定型瞑想」の境地は、ゴータマ・ブッダが実践するも
その限界と挫折を味わった境地でもある。
なぜならこの境地は、それを「Doingし続けている」間だけの、いわば”期間限定”の境地だからだ。

「禅の瞑想」の世界観・境地

これに対して「禅の瞑想」は、というと・・・

Sense & Allow 、「感じて許す」境地。
自らを自我で縛り上げず、外側にゴールを求めず、そのためのコントロールをしない。
ただ「イマココがあり」、「イマココである」状態に坐し、ただ観察している。

その状態をもって、内側に沈むのではなく、外側と溶け合うような、境地。

「究極的に意図を手放す」境地による、「観」の境地である。
それはもはや「コントロールしないぞ、というコントロール」をも手放すような境地なのだろう。

Zen Master に「成る」ために、瞑想を ”Doing” するのではなく。
禅の人「である」ことを思い出し、還っていくような「Beingレベルの無為・瞑想状態」、とでもいうべきか。

「観じて緩す」、という語感が、自分にはシックリくる感じだ。
 
 
そして、この「禅の瞑想」は「修定型瞑想」の限界に挫折したゴータマ・ブッダが
あの樹の下に「ただ坐す」ことでたどり着いた、あの境地であるともいえるようだ。

「瞑想の人」「禅の人」「どちらでもない人」の、”脳波の違い” は?

「瞑想の人」「禅の人」「どちらでもない人」。
・・・それぞれ、”刺激”に対する脳波の表れが異なるとのこと・・・その話が面白かった。

まず「瞑想の人」の脳波は・・・
刺激に対して、微動だにしない。フラットのまま。
それはいうなれば、刺激への究極的ブロック状態を「Doingし続けている」、不自然な無為状態ともいえる。

対して「禅の人」の脳波は・・・
刺激に対して、反応し、その瞬間にそれをリリースし、フラットに戻る。
そしてそれは、同じ刺激を受けても、毎回新鮮な反応を示すのだそう。
それはきっと、「イマココがすべて」なので「過去データ」というものを持ちあわせることがない状態にあるからだろう。

最後に「どちらでもない人」の脳波は・・・
刺激に反応した後、その反応の「原因や理由」といった(思考の)刺激が残留し続けるので、しばらくしなければフラットな状態に戻らない。
そして、同じ刺激に対しては、段々と反応しなくなるのだそう。
それは、「禅の人」とは異なり、過去を持ち合わせていることで ”飽きる” という現象が起きてくるからだと思われる。

現代文明社会の在り方にも通じる「強為(ごうい)」と「云為(うんい)」

「瞑想」と「禅」の世界観、境地。

その対比を象徴する言葉が、一照さんの言葉のなかにあった。

それが、禅の言葉である「強為(ごうい)」「云為(うんい)」

「強為」とはまさに、自意識による「コントロール」。押し進める力。Doingの力。
それは「瞑想」の境地とシンクロし、象徴している。

それに対し。
「云為」とはまさに、自然に任せた「許し」。委ねる力。Beingの力。
それは「禅」の境地とシンクロし、象徴している。

そして「強為」の世界は、まさに現代文明社会の歩み方そのものを象徴しているかのようだ。
強為の力で圧倒し、その分離や葛藤をコントロールして作り上げてきたもの。
その一方で「人の精神性」や「大自然」といったものが持つ「云為の力」を抑圧してきてしまった。

しかし、その在り方の限界に気づき、「云為」へのパラダイムシフトを始める人たちが出始めている。
それは「強為界」と「云為界」のカオス状態、ともいうべきか。
・・・そんなグラデーションの中に、わたしたちはいるのかもしれない。

そして、自分は今、その「瞑想と禅・強為と云為 のスペクトラム」において、どの辺りにいるのか。
自分の所属している集団、組織、地域社会などは、どうか。

そういったなかで、自分はどの位置づけで生きていきたいのか。

それをイメージしてみることも、自分の生き方の方針にヒントを与えてくれるかもしれない。

そして、話は逸れてしまうけれど、その「強為」から「云為」にパラダイムシフトを起こす言葉の一つが・・・
あの羽黒修験独特の言葉である「うけたもう」ではないか、とも感じた。

「瞑想」「禅」における自他のバウンダリ(境界線)との関係を、感じてみる

「瞑想」における、自他の境界の「在り方」。
・・・それはおそらく、自我をもって強固に作られる「分離の壁」。
それは固着的ブロックであり、壊されないようにするためのコントロールと集中をDoingし続けるものだろう。

一方で「禅」における自他の境界の「在り方」。
それは、自他の境界が「分離するためのもの」ではなく、「隣接するためのもの」「触れ合うためのもの」になるのだろう。
そしてそれらはつねにお互いの「在り方」のなかでゆらゆらと流動しつつ、ひとつの全体のなかで溶け合うような感じなのだろうか。

「からだ」を微細に ”観じる” 実践と、その難しさに潜むもの

そんな「禅」の「在り方」の”入り口”を十分に感じとってからの、実践。

座禅だけでなく、仰向けになっての「からだからエネルギーが抜けていくイメージワーク」や、ヨガのような”動きの推移”のなかで
自分の「イマココ」を微細に”観じる”ワークを行った。

すると、わかるのはやはり「いかに自分のからだを微細に感じることが難しいか」ということ。
いかに自分が、普段から自分のからだを「ザックリと扱っているか」ということ。
いかに自分のからだが、その間に「云為の力」で自分を維持してくれているか、ということだ。

もう一つは、「強為された条件付け」が、普段から いかに ”からだに刻まれている” か、ということ。

例えば、仰向けになり力を抜いている”はず”の参加者の腕を、一照さんが動かそうとすると・・・
無意識のうちにそれに ”合わせて動いてあげよう” とする力が働いてしまう、といったもの。
真に力を緩め、抜いて「イマココ」にからだを委ねることが、とても難しい。

からだにも、無意識レベルでの「条件付け」が強為されているようだ。

良いも悪いもない。全てはプロセス

「瞑想」と「禅」。強為と、云為。
それらは良いも悪いもなく、それぞれに役立ち方があり、望ましい要素がある。

一度は「瞑想」に取り組んで、それから初めて見えてくる「禅」へのパラダイムシフトがある。
・・・ブッダがそうであったように。
全ては必然であり、全てはプロセスなのだろう。

「イマココ」から、禅を”楽しむ”

最後に、禅の瞑想を続ける”コツ”を、一照さんは教えて下さった。

それは、「楽しむ」ということ。

ガンジーの言葉に「平和への道はない。平和こそが道なのだ。」というものがある。
そして、禅もまた同じなのだそう。
 
 
・・・「安楽への道はない。安楽こそが道なのだ。」
人の意識は永遠に「イマココ」だけを、体験し続ける。
だから、ある意味では「イマココ」が既に「果て」である、とも言える。
だからこそ、「イマココを安楽にすること」だけが、”安楽の法門” そのものなのだ。

時に坐し、時に横たわり、時には歩きながら・・・「禅」を、楽しんで取り組むこと。
練習し、体感し、実践すること。
・・・それは「イマココを楽しむという実践」の全てを、いうのかもしれない。

最後に

一照さんが紹介して下さった、禅の「在り方」をあらわす”智慧の言葉”を、ご紹介。

「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。」 
 
 
・・・以上 余計なことは言わず、ただこの記事に ”放ち忘れて” おこうと思います。

ゲストの藤田一照さん、企画・進行の丹羽順子さん、参加者のみなさま、ありがとうございました。

 
 
おしまい。

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